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陳羣 : ウィキペディア日本語版
陳羣[ちん ぐん]
陳 羣(ちん ぐん、? - 236年〔魏志「明帝紀」によると、青龍4年の12月24日。〕)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。『三国志志に伝がある。長文豫州頴川郡許昌県(現在の河南省許昌)の出身。祖父は陳寔。父は陳紀。叔父は陳諶。子は陳泰。妻は荀氏(荀彧の娘)。
魏国の法制度の整備に従事し、政略面で活躍した。特に九品官人法は、代に科挙が本格的に施行されるまで、各王朝の人材登用の基本方式となった。
== 経歴 ==

=== 若き日 ===
清流派に属する名家に生まれ、祖父・父・叔父ともに皆名声が高かった。陳羣は幼いころから祖父に認められ、将来において一族を盛んにする人物であろうと期待された。孔融は自身より年長の陳紀と友人であったため、年少の陳羣の才能を認め、陳紀に改めて挨拶をしたという。このことから陳羣は世間に名を知られるようになった。
若い頃は、辛毗杜襲趙儼と並んで名が知られていたという(「趙儼伝」)。ただし、禰衡には認められなかった。
当時、故郷の刺史だった劉備に登用され、別駕となった。194年、劉備が陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした際は、「南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険である」として反対したが聞き入れられなかった。まもなく劉備は、袁術と交戦状態になった隙を呂布に衝かれ領地を失ったため、陳羣の言葉を用いなかったことを後悔した。陳羣は茂才に推挙され、柘(しゃ)県令に任命されたが、就任せず父と共に徐州へ避難した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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