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呂布 : ウィキペディア日本語版
呂布[りょ ふ]

呂 布(りょ ふ、? - 建安3年〔198年〕)は、中国後漢末期の武将・群雄。奉先并州五原郡(現在の内蒙古自治区内)の人。『三国志』巻七 呂布伝、『後漢書』列伝六十五 呂布伝などに記録がある。
丁原董卓に仕え、抜群の軍事力を誇った。董卓との亀裂から彼を殺した後天下を失い、放浪するも最後は曹操に殺された。作品によっては項羽と共に最強とされ〔『作品について|項羽と劉邦』 〕〔[http://www.ctv.com.tw/opencms/2012/3kingdoms/ 『《三國》中視專題』公式サイトによれば「武功天下第一」とされる。詳細は「角色介紹」の「東漢末年人物」参照。〕、三国志関係の物語等でもしばしば最強の武将として描かれる。
== 事跡 ==

=== 董卓政権下 ===

勇猛さと武芸の腕前を買われ、幷州刺史の丁原に仕えた。丁原は、呂布を主簿(会計係)に任じて非常に寵愛した。
中平6年(189年)、霊帝が崩御して宦官十常侍外戚何進とが政争を繰り広げると、丁原は何進と宦官殺害を共謀し、執金吾に任命された。しかしまもなく何進は十常侍に殺害され、十常侍もまた袁紹らに誅殺された。
何進死後、洛陽に入城した董卓は叛乱を計画し、丁原の軍勢を奪おうと考えた。そこで丁原の信頼厚い呂布を誘って、これを殺害させることに成功した。これにより董卓は呂布を非常に重用し、父子の契りを結んだ。呂布は騎都尉中郎将に累進して、都亭侯に封じられた。
呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢李広になぞらえて飛将と呼ばれた。絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺を警護させた。
初平元年(190年)、袁紹らが董卓に対して挙兵する(いわゆる反董卓連合)と、曹操は出師したが呂布に大打撃を受けた〔渡邉(2013) p.54〕。
翌2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに際し、胡軫・呂布らを討伐軍として派遣した。しかし呂布は胡軫に偽情報を与える等相いれず敗北(陽人の戦い)。この戦い以降、董卓軍の形勢不利が固まったため、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた。その際呂布はまた洛陽で孫堅と戦ったが、敗れたという記述も有る〔後漢書(2004)・董卓伝p.407「明年,孫堅收合散卒,進屯梁縣之陽人。卓遣將胡軫、呂布攻之,布與軫不相能,軍中自驚恐,士卒散亂。堅追撃之、軫・布敗走。卓遣將李傕詣堅求和、堅拒絕不受、進軍大谷、距洛九十里。卓自出與堅戰於諸陵墓閒、卓敗走、卻屯黽池、聚兵於陝。堅進洛陽宣陽城門、更撃呂布、布復破走」〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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