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呂建剛 : ウィキペディア日本語版
呂建剛[ろ けんごう]

呂 建剛(ろ けんごう、ル・チェンガン、ピン音:Lǚ Jiàngāng , 1979年2月19日 - )は、中国天津市出身のプロ野球選手投手)。最速140キロのストレートとキレのあるカーブやスライダーなどが持ち味。
== 経歴 ==
南開大付属中卒業後、アマチュアの天津チームに入団。このころから陳坤らとともに中国球界屈指の若手本格派投手として期待される。野球を始める前までは陸上競技の選手であった。
1998年、予てから中国人選手のキャンプ受け入れなどを行っていた中日ドラゴンズに練習生として入団。その年のバンコクアジア大会で非世代別の中国代表デビューを果たす。
1999年、素質を見込まれ晴れて支配下登録選手として3年契約を結ぶ。近代野球では中国本土初のプロ野球選手となる。背番号は69。ただし選手育成と中国球界の発展及び交流を目的とした獲得だったため、1軍での登板はなし。2000年に一度だけ1軍登録されたことがあるが、1試合も投げることなくすぐに2軍落ちした。
2002年世界大学野球選手権釜山アジア大会に中国代表として出場。オフに新たに3年契約を結んだ。
2003年、中日はその成長ぶりを認めて呂との契約を更新する予定だったが中国野球リーグ設立に伴い、中国側からの要請や本人の強い希望もあり退団(一部報道では戦力外通告となっているが、これは間違いである)。実績を残せないまま日本を去ったものの、その後も中日からの要請で中国球界とのパイプ役を引き受け、精力的に活動している。帰国後は地元の天津ライオンズに入団。背番号17。
中国帰国後は右肩を故障し、2005年アジアシリーズは登録されるも登板できず、2006年WBCにも出場できなかったものの、その後順調に回復。
2006年、故障からの見事な復活劇を果たし、中国野球リーグ最優秀投手賞を受賞。中国代表が初出場した同年のハーレム・ベースボールウィークでは大学生で編成された台湾相手に完封勝利を挙げた。アジアシリーズドーハアジア大会にも出場。アジアシリーズでは選手登録されたものの、出場機会は無かった。
2007年、中国野球リーグMVP、最優秀投手賞、最優秀右投手賞を受賞。北京オリンピックプレ大会で先発登板し、フランスを6回1失点に抑えるものの、かつての師である星野仙一監督率いる日本相手には5回4失点で敗戦投手となる。アジアシリーズでは、その年日本シリーズを制した古巣の中日相手に先発し、7回途中まで投げて5失点(自責点は4点)で敗戦投手にこそなったものの、5回途中まで無安打無得点を継続するなど好投。
2008年、3年連続となる中国野球リーグ最優秀投手賞を受賞。北京オリンピック野球1次リーグにおいて、中国代表が台湾代表との試合を延長タイブレークに持ち込み、4点差を跳ね返し逆転サヨナラで勝利した。この勝利は中国代表チームのオリンピック初勝利であり、またアジア3強の一角、プロ選手で編成された台湾を破ったという意味で歴史的な1勝であった。呂はこの試合の勝ち投手になり、中国野球の歴史に名を残すこととなった。また、中国野球リーグにおける天津ライオンズの優勝に伴い、4年連続でアジアシリーズに出場(同年は中国として初めて、アジアシリーズに優勝チームが単独出場)した。
2009年WBCで台湾戦に先発登板し、6回途中まで無失点。同大会初勝利となる歴史的な1勝をあげた。中国代表として天津ライオンズが派遣されたアジア野球選手権にも出場。
2010年広州アジア大会中国代表に選出されるが、準決勝の韓国戦で秋信守らを擁する強力打線に屈し、敗戦投手となる。
2013年、WBCの一次予選で日本戦とブラジル戦に、リードされている場面で中継ぎとして登板し、いずれも1回を無安打無失点に抑えている。既に一次予選敗退が決まっていたブラジル戦では、登板直後に味方が大量点を奪い逆転したことで勝利投手となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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