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呂安国 : ウィキペディア日本語版
呂安国[りょやすくに]
呂 安国(呂安國、りょ あんこく、427年 - 490年)は、南朝宋からにかけての軍人本貫広陵郡広陵県
== 経歴 ==
宋の大明末年、将軍として任用され、劉勔に高く評価された。466年泰始2年)、豫州刺史殷琰が反乱を起こすと、劉勔は輔国将軍として殷琰を討ち、安国は建威将軍として劉勔を補佐した。軍を率いて殷琰の長史の杜叔宝の軍を横塘で撃破し、運車を焼いて殷琰の糧道を絶った。殷琰が敗走すると、安国はこれを追撃して、寿春の城南を占拠した。安国は勲功第一として、彭沢県男に封じられた。467年(泰始3年)、鍾武県男に改封された。寧朔将軍・義陽郡太守に累進した。468年(泰始4年)、湘南県男に改封された。469年(泰始5年)、北魏が汝南を落とし、宋は司州の州治を失っていたため、安国は督司州諸軍事・寧朔将軍・司州刺史に任じられた。470年(泰始6年)、義陽郡に司州の州治を立て、義陽郡太守を兼ねた。後に右軍将軍に転じ、仮の輔師将軍となった。474年元徽2年)、晋熙王征虜司馬となった。游撃将軍に転じた。475年(元徽3年)、持節・都督青兗冀三州縁淮前鋒諸軍事・輔師将軍・兗州刺史として出向した。476年(元徽4年)、冠軍将軍に進んだ。召還されて游撃将軍となり、散騎常侍・征虜将軍の位を加えられた。
477年昇明元年)、沈攸之の乱が起こると、安国は蕭道成の命により湘州刺史となった。先立って王蘊が湘州刺史を退任し、南陽王劉翽が湘州刺史に任じられたが、赴任しなかったため、王蘊の寧朔長史の庾佩玉が湘州の事務を代行した。宋の朝廷は先に南中郎将中兵参軍・臨湘県令の韓幼宗に湘州の防備にあたらせていた。沈攸之が反乱を起こすと、庾佩玉と韓幼宗はたがいに疑いあって、庾佩玉が韓幼宗を殺した。平西将軍の黄回郢州に入ると、軍主の任候伯を行湘州事として派遣し、庾佩玉を殺害した。安国が蕭道成の命で湘州に入ると、任候伯を収監して殺害した。まもなく安国は前将軍に進んだ。479年建元元年)、爵位を侯に進めた。右衛将軍の号を受け、給事中の位を加えられた。480年(建元2年)、北魏が侵攻してくると、安国は蕭道成の命により司州に出て、郢州と司州の統治を任された。本官のまま使持節・総荊郢諸軍北討事となり、義陽の西関に駐屯した。さらに沔口に駐屯地を移して会敵を待った。湘郷県侯に改封された。
482年(建元4年)3月、斉の武帝が即位すると、安国は使持節・散騎常侍・平西将軍・司州刺史に任じられ、義陽郡太守を兼ねた。484年永明2年)1月、都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・平北将軍・南兗州刺史に転じた。3月、都督・湘州刺史となった。486年(永明4年)、湘川蛮が斉の統治に反抗すると、安国は湘州の兵を率いてこれを討った。病にかかり、召還されて光禄大夫となり、散騎常侍の位を加えられた。安国は文官の位を受けたのを喜び、その子に対して戦場で走り回るのをやめ、朱衣の官となるようにと教えた。武帝は中書舎人の茹法亮を派遣して安国の病を見舞わせた。487年(永明5年)、安国は都官尚書に転じ、太子左率を兼ねた。488年(永明6年)7月、領軍将軍の号を受けた。まもなく散騎常侍・金紫光禄大夫・兗州中正に転じた。490年(永明8年)、死去した。享年は64。使持節・鎮北将軍・南兗州刺史の位を追贈された。は肅侯といった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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