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呂妃 ( リダイレクト:呂雉 ) : ウィキペディア日本語版
呂雉[りょ ち]
呂 雉(りょ ち、紀元前241年 - 紀元前180年7月)は、の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。は娥姁(女偏+句)。高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后太皇太后となり、呂后呂太后呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代武則天(則天武后)、清代西太后と共に名前が挙げられる。
== 生涯 ==

=== 皇后となるまで ===
単父(現山東省単県)の有力者・呂公(呂文叔平)の娘として生まれた。当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた蕭何に「進物一万銭」とはったりを書いた劉邦に呂公が感心し、妻の反対を押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女(恵帝魯元公主)をもうけた。この時は劉太公の農業を助け、懸命に子供たちを育てていた。ちなみに妹の呂須は樊噲に嫁いだ。この時、人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言われ、また始皇帝が「東南のほうに天子の気がある」と言い、始皇帝が巡幸した際に身の危険を感じた劉邦が山奥へ逃げるも、呂雉はすぐに探し当て劉邦が不思議がると呂雉は「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。これらが噂となり、劉邦に仕える者が多かったという。
秦末動乱期及び楚漢戦争開始直後は、沛県で舅の劉太公や子供達とともに夫の留守を守っていたようである。
しかし楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ人質になってしまう(恵帝と魯元公主は劉邦と合流、関中に逃れることに成功するが、その際に劉邦が子を捨てる騒動が起こっている)。
これ以降の楚漢戦争は、劉邦の配下である韓信らによる楚陣営各国の切り崩しと平定、そして太公と呂雉の身柄の解放が焦点となり、項羽側が有利でありつつも膠着状態に陥った。しかし紀元前203年に入ると、韓信等による楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公と共に劉邦の元に帰ることを許された。
紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。このような状況の下で、呂皇后は夫の留守を預かり、紀元前196年に淮陰侯韓信の下僕の密告で、韓信が反乱を企てたことを知り蕭何と計りこれを召し出して処刑する一方、自分の実家の呂氏一族、及び張良らの重臣の助けを借りて、皇太子となった劉盈の地位の安定に力を尽くした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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