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何進 : ミニ英和和英辞書
何進[か しん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なん]
  1. (int,n) what 

何進 : ウィキペディア日本語版
何進[か しん]

何 進(か しん、? - 光熹元年8月29日189年9月22日))は、中国後漢末期の武将、政治家。遂高荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市)の人。異母妹は霊帝の皇后(何氏)。父は何真。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)。子の名は不詳。孫は何晏
== 略歴 ==
元々、何氏の家系は屠殺業であったとされる
同郡出身の宦官郭勝の後押しがあって、異母妹が宮中に入り霊帝の貴人となったため、何進は採り立てられ郎中となり、虎賁中郎将を経て潁川太守に転じた。光和3年(179年)に宋皇后が廃され異母妹が皇后に立てられると、中央に戻り侍中となり、将作大匠・河南尹となった。
中平元年(184年)、太平道張角による黄巾の乱が勃発すると、何進は大将軍となり、近衛兵を率いて首都の洛陽を守備し、兵器を修繕し軍備を整えたり、密偵の馬元義を捕らえる功績を挙げ、慎侯に封じられた。また皇甫嵩朱儁盧植董卓らの働きにより、黄巾の乱も鎮圧された。しかし、鎮定後も各地で乱が続いた。中平5年(188年)、霊帝による軍制改革が行われた〔石井仁窪添慶文らによる霊帝時代の再評価を目指す研究成果に基づく。『後漢書』何進伝によると、大将軍の司馬である許涼伍宕の進言により、何進が霊帝に上奏しその裁可を得た上で実行したことになっている。〕。西園三軍(西園八校尉)を設置した上で霊帝自身が無上将軍と称し、さらに上軍校尉に寵愛する宦官の蹇碩を据えて、司隷校尉以下を総領する権限を与えた。この総領の対象には、大将軍である何進自身も含まれていた。
霊帝の後継を巡り劉弁劉協が争うことになると、それぞれを支持する皇后何氏と霊帝の母董氏の間で激しい対立があった。蹇碩が董重と組み劉協を支持したが、中軍校尉の袁紹は何進と積極的に結びついて蹇碩らに対抗した。
中平6年(189年)4月、蹇碩は霊帝から劉協を後継とするよう、遺詔を与えられたという。蹇碩は霊帝が崩御した後、董重と組んで何進の誅殺を企てたが、司馬の潘隠が何進と親しく、計画を密告したため失敗した。5月に劉弁が即位すると、十常侍趙忠を初めとする宦官の主流派は蹇碩を見捨て、何進に与した。その結果、ついに蹇碩ならびに董氏一党は排除され、6月には董太后も河間に戻され死去した。
少帝の即位後も、それまで朝野に鬱積していた不満が爆発し、特に宦官が世論の批判を浴びるようになった。そのため何進は、蹇碩に殺されかけた怒りもあったため宦官の排除に乗り出し、袁紹ら幕僚たちを集めて積極的に諮ったが、何皇后や継弟が宦官を擁護したため、何氏同士で対立が生じる構図になった。また、外戚である何氏との連携によって事態を乗り越えようと図っていた宦官にとっても想定外の事態であり、中常侍張譲が何進を説得しようとしている(『後漢書』巻69何進列伝)〔渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第七章「政治空間よりみた後漢の外戚輔政」〕。何進が争いに及び腰になると、袁紹は地方の諸将を都に呼び寄せ、太后らに圧力をかけることを提案した。しかしこれに盧植・陳琳曹操らが反対した(王沈の『魏書』)。再三の袁紹による催促の結果、何進はこれを容れ、王匡橋瑁鮑信張楊張遼・曹操に兵士や兵糧を集めさせると共に、丁原や董卓といった地方の将軍を呼び寄せた。また袁紹が大将軍の命であると偽って、各地に指令を出したこともあった。
このように情勢が緊迫していたため、袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していた。しかし8月、何進は無警戒に宮中に参内したところを、宦官の段珪畢嵐が率いた兵によって取り囲まれ、張譲に罵倒されながら嘉徳殿の前で殺害された。
張譲らは何進を殺すとを偽造し、宦官らに親属していた少府の許相と太尉の樊陵を利用し都の兵を握ろうとした。このとき命令を疑った尚書に対し、何進の首を見せて示したという。しかし何進が、普段から部下に対して親しく接していたため、激怒した何進の部下達の反攻に遭うこととなった。袁術は兵を挙げ、何進の部曲であった呉匡らとともに宮中に突入し、何太后の身柄を確保したが、少帝と陳留王(劉協)の身柄を宦官に奪われた。また袁紹も叔父の袁隗ならびに盧植とともに、許相らを誘き出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬った。こうして宮中から宦官とそれに味方する勢力は一掃された。少帝と陳留王の身柄を奪って逃走した宦官の残党達も、変を知り軍を率いて上洛してきた董卓から自殺に追い込まれたという。少帝と陳留王は董卓に保護され都に戻ることが出来た。しかしこの混乱の中で、何苗も呉匡により殺害されてしまい、何氏は大きく勢力を弱めることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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