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曹叡 : ウィキペディア日本語版
曹叡[そう えい]

曹叡(そう えい)は、三国時代の第2代皇帝
== 生涯 ==
文帝曹丕の長男。生母は甄氏延康元年(220年)、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)には平原王に封ぜられた。
裴松之注『魏書』によれば、抜きんでた容貌を持ち、望み見ると侵しがたいほどの威厳があったという。また西晋の歴史家である孫盛は、曹叡は生まれつきの美貌に加え、床に届くほどの長い髪を持ち、「天姿秀出」と絶賛された、という話を古老から聞いたという。
16歳の時、母の甄氏は父の文帝に殺された。
当初、文帝は曹叡を好まず、他の夫人(徐姫)の子供である京兆王(曹礼)を後継ぎにしたいという気持ちをもっていた。そのため曹叡は長期間太子になれなかった〔『魏略』〕。
曹叡はかつて文帝の狩猟のお供をしていたとき、子を連れた母鹿に出会った。文帝は母鹿を射殺し、曹叡に子鹿を射させようとしたところ、曹叡は拒否して、「陛下はすでにその母のほうを殺しておしまいになりました。私はこのうえその子を殺すに忍びません」と言い、涙を流した。文帝は即座に弓矢を放り出した。このことによって、高く曹叡を評価するようになった。こうして、彼を太子に立てる決意をしたのである〔『魏末伝』〕。もっとも、こうした説話は後世の創作とし、曹霖など他の皇子にも皇位継承の可能性があったものの、建国7年にして突然の死期を悟った文帝がやむなく年長で学問好きな曹叡を選択したに過ぎないとする指摘もある〔福原、2012年、P57-58〕。
黄初7年(226年)に文帝が病床で重体に陥ってから、皇太子に立てられた。母の甄氏が曹丕の勘気に触れて死を賜っていたこともあり、即位以前の曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は司馬懿など限られた人々しかいなかったという。同年5月に文帝が崩御すると皇帝に即位した。
明帝は即位後、真っ先に母・甄氏の名誉回復を行うべく皇后の位を追贈し、文昭皇后と諡した。
景初元年(237年)には七廟の制を整備するとともに、祖父の武帝曹操・文帝に対して太祖・高祖の廟号を定めるとともに、自身の廟号を烈祖と定めた。
この年、寵愛が郭皇后に移った明帝は、侍人十数人を殺害するとともに、毛皇后に死を賜った。皮肉にも、かつて恨み言を理由に自身の妻を殺めた父と同様の行動をとる事となった。
景初2年(238年遼東制圧が完了した前後、首都洛陽にあった明帝は病によって重篤に陥り、曹芳〔養子。曹叡は全ての実子に先立たれてしまっていた。娘を葬る際の祭礼の様式が限度を超えていると臣下から諫言されても強行したという逸話がある。〕の後見人を誰にするかを模索した。はじめ、曹宇曹肇夏侯献秦朗〔『献帝春秋』によると、秦朗は曹操の秦夫人の連れ子であり、実父は呂布の将秦宜禄。『魏略』によると、宮中で曹操の子等と兄弟同然に育てられ、曹叡と非常に親しかったという。〕ら宗室で固めようとするが、彼らと不仲であった劉放孫資ら側近の反対にあって心変わりする。
最終的に司馬懿・曹爽らを後見人に改めて立て、景初3年(239年)1月に34歳で崩御し、高平陵に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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