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藤原教通 : ミニ英和和英辞書
藤原教通[ふじわらきょうどおり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [つう]
  1. (adj-na,n) (1) connoisseur 2. authority 3. (2) counter for letters, notes, documents, etc. 

藤原教通 : ウィキペディア日本語版
藤原教通[ふじわらきょうどおり]

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期の公卿摂政太政大臣藤原道長の五男。
== 経歴 ==
藤原道長の五男であったが、同母兄の頼通と同じく嫡子として扱われ、寛弘3年(1006年元服して正五位下直叙され、侍従に任ぜられる。兵衛佐・近衛少将/中将を経て、寛弘7年(1010年従三位に叙せられ、ここでも頼通と同様に若干15歳で公卿に列している。
寛弘8年(1011年正三位長和2年(1013年)には庶兄の頼宗を越えて参議を経ずに従二位権中納言に叙任される。長和4年(1015年正二位寛仁3年(1019年)正官の中納言であった藤原行成藤原隆家を越えて権大納言に叙任されるなど、若年にして急速な昇進を果たす。寛仁4年(1020年)には一条朝の四納言として長く朝廷で活躍していた大納言・藤原斉信と権大納言・藤原公任を越えて26歳で内大臣となった。
内大臣となった教通は後宮対策に乗り出し、長元3年(1030年)に後一条天皇に対して長女の生子の入内打診を奏上し、天皇も受諾の意向を見せる。しかし、同母妹で後一条天皇の中宮であった藤原威子が里下りして身を隠そうとする行為に出たことに加え、母の源倫子による直接の諫めや、兄の頼通の反対意向もあって、入内は断念せざるを得なかった〔『栄花物語』巻31,殿上の花見〕。
後朱雀朝に入り、長暦3年(1039年)8月に頼通の養女後朱雀天皇の中宮であった藤原嫄子が崩御し、後宮は皇后禎子内親王三条天皇皇女)ただ一人の状況となる。ここで、教通は既に26歳になっていた生子入内の最後の機会と捉えたらしく、頼通の強い反対と妨害〔『栄花物語』巻34,暮れまつほし、『春記』長暦3年11月22日条,28日条〕を押し切って年末押し詰まった12月に入内を強行した。入内に際しては、頼通が最後まで反対して輦車を貸与せず、教通は自前で輦車を新しく作って準備せざるを得なかった。さらに頼通への遠慮から入内に随行した殿上人はわずか5名(藤原経通藤原定頼藤原信長藤原経家藤原顕家)という有様であった〔『春記』長暦3年12月21日条〕。後朱雀天皇と生子の仲は睦まじかったが、皇子女を儲けることはできなかった。また、天皇は生子を立后しようとしたが、頼通が摂関の娘でなく皇子を生んでもいないことを理由に反対したため、これも実現できなかった。
次代の後冷泉天皇に対しは、頼通に先んじて永承2年(1047年)に三女・歓子を入内させる。歓子は永承4年(1049年)に待望の皇子出産するものの皇子は即日没し、永承6年(1051年)頃からは兄の静円僧坊がある洛北の小野に籠居してしまい、皇子女に恵まれなかった。
康平7年(1064年)に頼通から藤原氏長者を譲られる。治暦3年(1067年)12月には頼通が関白を辞任。頼通は実子の右大臣・藤原師実に関白職を譲ろうとしたらしいが、姉の上東門院(藤原彰子)が道長の遺言を理由にこれを許さず〔『古事談』〕、しばらく関白職が空席となる。翌治暦4年(1068年)4月には後冷泉天皇が重篤となり、藤原氏と関係が疎遠な後三条天皇即位が確実となる状況下で、やむなく頼通は教通への関白職譲渡に同意し、4月16日に教通が関白に任ぜられる。この関白任命は後冷泉天皇在位中であるが、任命から3日後には後冷泉天皇が崩御して後三条天皇が践祚しているため、教通の関白任命は新帝(後三条天皇)即位に対応した人事である。なお、教通は後三条天皇の娘・禔子内親王を後室とし、更に息子・信家の室に後三条天皇の孫でその養女となった儇子内親王(実父は小一条院)を迎えていることなどにより、元々三条天皇系の陽明門院・後三条天皇母子と教通の関係は、頼通との関係ほど疎遠ではなかったとの説もある〔遠藤基郎『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008年) ISBN 978-4-13-026218-7 P53-55・312-313・316-318・324)〕。また、後冷泉天皇の意向により、教通の関白就任の翌日17日に歓子が皇后に冊立されている。
後三条天皇が藤原氏との関係が疎遠であったために教通の時代に藤原摂関家が衰退したとされているが、教通が兄・頼通との約束に反して息子・信長への関白譲位を図った事から兄弟の不仲が深刻となり、頼通の影響力を抑制したい後三条天皇と教通の思惑が合致したことによって両者は接近する。『栄花物語』には後三条天皇が自己の主張を貫きつつも教通との関係を重視したことが記されている。そのため、頼通の財政的な基盤を切り崩すために後三条天皇が行った延久荘園整理令の施行を事実上容認したとも言われている。
教通の日記は『二東記』と呼ばれるが、散逸し一部のみが伝わっている。また、尾張兼時に師事していたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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