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藤原敏男 : ミニ英和和英辞書
藤原敏男[ふじわら としお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 

藤原敏男 : ウィキペディア日本語版
藤原敏男[ふじわら としお]

藤原 敏男(ふじわら としお、1948年3月3日 - )は、日本キックボクサー岩手県宮古市田老鉱山出身。外国人として初めてムエタイの頂点・ラジャダムナン王者となった。
その戦いぶりはキックの荒鷲と呼ばれるほど激しい攻撃力を持ち、一時代を築いた強豪である。ムエタイ現役王者をノンタイトル戦で現地バンコクKO勝ちなど何度も勝利していることから、タイ人以外のムエタイ王者としての実績は文句なしにトップである。身長168cm体重61kg血液型A型〔「マーシャルアーツ」 スポーツライフ社、No.1、1983年9月、31 - 33頁。〕。
引退後は「藤原スポーツジム」で後進の育成や、「ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ(JMD)」の理事長をしている。
== 来歴 ==
高校時代はテニス部に所属し、卒業後に上京し中央工学校の夜間部で設計の勉強を始める。アルバイトで牛乳配達をするが、配達区域に目白ジムがあった。その縁で目白ジムを見学しているうちにキックボクシングに興味を抱き、1969年7月に目白ジムへ入門した。黒崎健時の指導を受け、目白ジムに住み込みでキックボクシングに専念し始めると、1日10時間年中休みなしの練習漬けの毎日を送った。同年10月1日にプロデビュー。坂井田佳央と対戦しパンチで2RKO勝ち。しかし、タイ人選手相手に立て続けにKO負けしたことで、本格的にキックボクシングに取り組み始める。
1971年11月5日全日本キックボクシング協会の初代王者決定トーナメントで玉城良光判定勝ちし優勝。初代ライト級王座を獲得し、新格闘術に転向するまで防衛し続けた。
1972年4月でのタイ遠征を皮切りに、ムエタイの殿堂ラジャダムナンルンピニー両スタジアムで本場ムエタイ戦士と対戦。
1974年3月、キックボクシングに転向していた元プロボクシング世界フェザー級王者西城正三と対戦。西城は転向後、16試合15勝1引き分け13KOと連勝街道を突っ走っていた。世紀の一戦とマスメディアも煽り立てたこの試合は、1Rから西城がパンチ中心で攻めるのに対し、藤原はパンチ・蹴りと上下に散らし、バランス良く攻める。2Rから藤原の攻めにスピードが乗りヒットし始めると、西城の攻めは空振りが目立ち始める。3Rに入り、西城が一方的に攻められる状態になり、KOなるかの直前に西城陣営からタオルが投げ込まれ、試合を棄権。藤原のTKO勝ちとなった。同年11月26日、東京体育館でBBTVライト級タイトルマッチでジャイディ・ピサラヌンチャン(ラジャダムナン・ライト級王者)と対戦したが4度のダウンを喫し、判定負けした。
1975年、左を28針縫う手術し引退を囁かれたが、復帰を果たす。このとき45日間入院したが、退院して3日後、皇居マラソンをやり、5キロメートルを23分ぐらいで走った。決して速いタイムではないが、28針縫って48日間も寝ていた体で走りきる常識では考えられないことをやり遂げた〔黒崎健時 『続 必死の力・必死の心』 スポーツライフ社、1981年、76頁。〕。
1977年4月7日、タイのラジャダムナン・スタジアムでチャラポン・ソータイ(ライト級王者)と対戦。1Rで藤原が右肘打ちを出し、お互いがもつれあいになり、両者倒れた。右肘打ちがリングに倒れる前か後かで判断が分かれたが、ムエタイはダウン以外でも倒されるのはマイナス評価を受ける競技であり、倒れる方が悪いと判断され、藤原はムエタイの歴史上初めて現役王者を破るという快挙を為し遂げ、外国人として初偉業を成し遂げた。
1978年3月8日後楽園ホールモンサワン・ルークチェンマイに4RKO勝ちし、ラジャダムナン・スタジアムライト級王座を獲得し、ムエタイ史上初の外国人王者となった。同年6月7日シープレイー・ガイソンポップ(ルンピニー&ラジャダムナンライト級1位:タイ)と対戦し判定負け。黒崎健時や日本のマスメディアは、タイ側のホームタウンディシジョン判定であると主張している。
1979年10月30日、シープレイー・ガイソンポップ(ルンピニー&ラジャダムナンライト級統一王者)と王座決定戦を行い7RKO勝ちし、黒崎健時が興した「新格闘術」の世界ライト級王者になる。同年には梶原一騎総指揮の映画にも出演している。また、梶原原作の劇画四角いジャングル」にも重要人物として頻繁に登場した。
1983年2月に引退し、その後、長い間キックボクシングには関わらなかったが、1997年に「藤原スポーツジム」を設立し、指導を始める。
2010年に発足される立ち技系格闘技のコミッション組織「ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ(JMD)」の理事長に就任した〔ムエタイ&RISEをより競技化するためJMD発足、理事長は藤原敏男氏! - 2010年1月25日 GBR〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤原敏男」の詳細全文を読む




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