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源頼光 : ミニ英和和英辞書
源頼光[みなもと の よりみつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなもと, げん]
 【名詞】 1. source 2. origin 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

源頼光 : ウィキペディア日本語版
源頼光[みなもと の よりみつ]

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏近江源俊女。はしばしば「らいこう」と有職読みされる。
満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏源頼信がいる。
== 略歴 ==
生誕地は不明だが本拠地の多田であるか、父の満仲が天延元年(973年)頃には平安京の左京一条に邸を持っていたことから、満仲邸であるともされる。若年の経歴は不明。同時代の中級貴族と同じく20歳前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て財力を蓄えていたと考えられている。
寛和2年(986年)頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に春宮権大進に任じられる。正暦3年(992年)には備前に任官しているが、都に留まっており遙任であったと思われる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月には関白藤原兼家が新邸を造営した宴において30頭を送っている。
正暦元年(990年)、関白兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったと伝えられる。長保3年(1001年)には美濃守を兼任、このときは遙任であったことを示す記録も無く任国へ赴いていたと思われる。同時期には大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており親交があったと思われる。また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残している。
但馬伊予摂津970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築く。
寛仁元年(1018年)3月、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書がある。
また、歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計3首の和歌が入集している。
没年は68、あるいは74。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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