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斎藤利治 : ミニ英和和英辞書
斎藤利治[さいとうとしはる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とき]
 【名詞】 1. meals exchanged by parishioners and priests 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 

斎藤利治 : ウィキペディア日本語版
斎藤利治[さいとうとしはる]

斎藤 利治(さいとう としはる)は、戦国時代武将斎藤道三の末子といわれる。通称は新五郎、新五。は、長龍長竜利興ともいわれるが、『竜福寺文書』『宇津江文書』によれば利治が正しいとされる。
== 生涯 ==
天文10年(1541年)頃、美濃国の大名・斎藤道三の末子として生まれたとされる。
長良川の戦い後、織田信長は道三の近親(義弟)の新五郎を助け置き、斎藤家の跡を継がせようとし、一所懸命地を宛て行った。そして、元服した新五郎は利治と名乗り、信長に近侍して数度武功を顕した〔『総見記』『富加町史下巻』「第七節 加治田城主斎藤新五」〕。
永禄8年(1565年)8月、佐藤忠能らと共に岸信周堂洞城〔『堂洞軍記』「関加地田軍之事」〕、同年9月には、長井道利関城をそれぞれ攻め落とす(堂洞合戦関・加治田合戦)。堂洞城攻めで佐藤忠能の子・忠康が討ち死にしたため忠能の養子となり、永禄10年(1567年)に忠能が隠居すると加治田城主となる〔『堂洞軍記』 「関城攻之事」〕〔谷口克広は、忠能の養子になったのは信じがたいが、加治田城を譲られたのは確からしいとする(『織田信長家臣人名辞典 第2版』189頁)。〕。
この間の永禄8年(1565年)11月1日付けで、信長より武儀郡から加茂郡にかけての地13ヵ所、計2,184貫文を宛がわれている(備藩国臣古証文)〔。兄の斎藤利堯を加治田城留守居とした〔堂洞軍記〕。
永禄11年(1568年)、近江国六角氏六角義賢)攻めにて参陣する。
永禄12年(1569年)、伊勢国大河内城の戦いでは北方の進撃軍の部将に加わり、織田軍は伊勢一円を手中に入れた〔太田牛一信長公記』 巻二「阿坂の城退散の事」〕。
元亀元年(1570年)6月、近江国小谷城攻めに参加し、森可成坂井政尚らと支城の雲雀山城を攻撃して町を焼き払う〔太田牛一 『信長公記』 巻三 「たけくらべ・かりやす取出の事」〕。同年6月の姉川の戦いにも従軍する。9月に石山合戦が勃発すると、信長が築かせた楼の岸の砦に稲葉一鉄中川重政と共に入り、砦を死守する〔太田牛一 『信長公記』 巻三 「野田福島御陣の事」〕。
元亀3年(1572年)4月、三好義継松永久秀父子と共謀し畠山昭高に敵対すると、柴田勝家などと共に三好・松永方の交野城を攻囲〔太田牛一 『信長公記』 巻五 「交野へ松永取出仕り侯て追払はるゝの事」〕。
元亀4年(1573年高屋城攻めに参戦。同年の7月、填島城の戦いでは安藤守就らと先手となり、足利義昭が籠城する槇島城を攻撃した。同年、織田三郎五郎林秀貞と共に、志津・丘海・山中の三城に籠り守備し、浅井氏と対陣した〔太田牛一 『信長公記』 巻六 「真木島にて御降参、公方様御牢人の事」〕。
直後の朝倉討伐小谷城攻めにも従軍〔『富加町史下巻』「二 新五の戦歴」〕。
天正2年(1574年)、伊勢長島一向一揆攻めに参戦し鎮圧する〔太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」〕。同年2月、武田勝頼の東美濃侵攻を阻止するため、信長の嫡男・織田信忠率いる軍に蜂屋頼隆河尻秀隆森長可佐藤秀方等と従軍(岩村城の戦い)。
天正5年(1577年)、柴田勝家の北国攻めに滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀などと共に従う(手取川の戦い)〔太田牛一 『信長公記』 巻十 「柴田北国相働くの事」〕。
天正4年(1576年)、織田信忠が信長から織田家の家督と美濃国尾張国を譲られ、岐阜城主となり、濃姫の養子となった前後から信忠付きの側近(重臣)となる。
天正6年(1578年)10月、神保長住への援軍として越中国へ派遣され、太田本郷城に入り、月岡野の戦い河田長親率いる上杉軍を撃破し〔太田牛一 『信長公記』 巻十一 「小相撲の事」〕、信長・信忠より感状を与えられた〔「尚久。寒天の分ご苦労の段とお察しする。(中略)尚これから加勢のため毛利河内守につけて森勝蔵・坂井越中守・佐藤左衛門の諸将を派遣する。いずれ重ねてお知らせする。よい注進を待っている。天正六年十月十二日 斎藤新五殿 信忠印」。〕。
この時期に摂津国で、織田信忠隊の加茂砦荒木村重に夜襲にあった経緯もあり、信長は利治に越中国を速やかに撤退し、本国に戻るよう指示し〔「注進の趣委細聞き及んだ、そちらの戦場での見事な働き誠に心地よく、天下の評判も殊の外よろしい。(中略)加勢に行った者とも相談し、急ぎ着陣せよ、神保越中守に後のことよく談合すること。 天正六年 信長印 斎藤新五殿」。〕、利治は直ちに撤収した。有岡城の戦いでは、一手を率いて勇戦した。
その後しばらくは動きが明らかでなく、信忠軍団にありながら、甲州征伐にも参加した様子がない〔。
天正10年(1582年)6月1日、利治は信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めを助ける為、京都二条妙覚寺へ信忠と宿をとり、信長は本能寺を宿とした〔。京都所司代村井貞勝は本能寺向かいの自邸で宿をとった。
6月2日払暁、明智光秀の謀反(本能寺の変)を知り、父・信長のいる本能寺へ救援に向かおうとする信忠に対し、利治ら側近は既に事態は決したから逃亡するように諭すが、信忠は明智軍による包囲検問を考慮し、貞勝の二条新御所へ移るべきとの提言により、逃亡を諦めて守りの向かない妙覚寺から二条新御所へ移り、誠仁親王を脱出させ、わずかな軍勢ながら防戦し明智勢を3度も撃退する。その間に、京都に別泊していた信長・信忠軍や馬廻りの者が徐々に駆けつけると、明智軍は近衛前久邸の屋根から二条新御所を弓矢・鉄砲で狙い打ったため、最期を悟った信忠は自刃。その後、利治は火を放ち敵兵をよく防いだが、最後は同じ美濃斎藤氏一族の斎藤利三に攻められ、討死した〔太田牛一 『信長公記』 巻十五 「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「斎藤利治」の詳細全文を読む




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