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小谷城の戦い : ミニ英和和英辞書
小谷城の戦い[おだにじょうのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

小谷城の戦い : ウィキペディア日本語版
小谷城の戦い[おだにじょうのたたかい]

小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は、天正元年(1573年)8月8日から9月1日まで織田信長浅井長政との間で行なわれた戦国時代の戦いである。
== 経緯 ==
元亀元年(1570年)4月、尾張の織田信長・越前朝倉義景と同盟関係を結んでいた北近江の浅井長政は、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交した(金ヶ崎の戦い)。同年6月28日には朝倉氏と連合して、信長と徳川家康の連合軍を迎えるも敗北(姉川の戦い)。直後に浅井氏は本拠・小谷城の南方拠点である横山城を奪われ、木下秀吉が守将として浅井氏の監視役に置かれた。
それでも浅井氏は信長への抵抗を続け、9月に信長が三好三人衆を討伐せんと摂津に出兵(野田城・福島城の戦い)した隙を突いて再び朝倉と蜂起し(志賀の陣)、一矢報いた。この時期から室町幕府15代将軍足利義昭の呼びかけに応じた石山本願寺らも織田氏を攻撃し始めた(信長包囲網)。しかし近江では、孤立した佐和山城主の磯野員昌宮部継潤が織田家に降伏。小谷城近辺の町が毎年放火・刈田狼藉を受けるなど、浅井氏は苦境に陥っていった。
元亀3年(1572年)7月、5万の大軍を率いた信長は小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から横山城まで長大な要害を作り始めた。これを見た浅井氏は、朝倉氏に「河内長島一向一揆が起き、尾張と美濃の間の道をふさいだので、朝倉殿が出馬なされば尾張・美濃勢をことごとく討ち果たせるでしょう」と虚報を伝えて援軍を求め、越前からも朝倉軍(義景の1万5000、朝倉景鏡の5000)が救援に駆けつけた。これと同時期に西上作戦を発動させた甲斐武田信玄が信長・家康の領国へ侵攻した。
しかし義景はほとんど攻勢に出ず、むしろ朝倉勢から前波吉継父子、富田長繁戸田与次毛屋猪介が織田方に寝返る始末で、織田方の要害が完成してしまった。信長は志賀の陣に引き続き、「日を決めて決戦に及ぼう」と義景に申し入れたが、やはり義景は動かなかった。9月16日、信長は木下秀吉を虎御前山砦に残して横山城に兵を引いた。
11月3日に浅井・朝倉勢はやっと動き、要害に攻撃を仕掛けてきたが木下秀吉に撃退され、12月3日に朝倉勢は越前へ撤兵してしまう。武田軍も信玄の体調が悪化したために甲斐に撤退をはじめ、その途中、翌元亀4年(1573年)4月に信玄が病没。朝倉軍引き上げから翌年2月までの信長の動向は良く判っていないが〔「信長公記」によれば1月8日に岐阜で松永久秀から太刀を献上されているが、「大日本史料」その他の史料との整合性から、翌年の出来事としている〕、おそらく美濃で武田氏を迎撃する準備をしていたと思われる〔谷口、P119 - P120。〕。なお、「自分の死を3年間は隠せ」との信玄の遺命に従った武田家では、同年内の織田・徳川への本格的な再攻をすることは無かった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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