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北条邦時 : ミニ英和和英辞書
北条邦時[ほうじょう くにとき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [ほう, くに]
 (n) country
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

北条邦時 : ウィキペディア日本語版
北条邦時[ほうじょう くにとき]

北条 邦時(ほうじょう くにとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家嫡子
鎌倉幕府第14代執権北条高時の長男〔〔『鎌倉年代記裏書』 元徳3年12月15日条。
「十二月十五日、太守禅閤第一郎七歳首服、名字邦時、於御所被執行、」〕〔『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」の文中に「相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、…(略)…昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、…(略)…朝敵の長男にてをはすれば、」とある。〕。母は御内人五大院宗繁の妹〔(娘とする系図もある〔)。乳母父は長崎思元〔永井『金沢北条氏の研究』P.183、注(27)。典拠は注1前掲文書中の「尼御乳母ふかさわ殿三郎左衛門入道妻」。〕。邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟である〔『系図纂要』の北条氏系図で、邦時の母を「五大院右兵尉宗繁女」と載せるのに対し、時行については記載なし(母親不詳)という形で邦時と同母であることを示していないので異母兄弟であった可能性が高い。〕。
元徳3年/元弘元年(1331年12月15日元服した〔永井『金沢貞顕』P.139。〕時7歳であり〔、逆算すると生年は正中2年(1325年)となるが、同年11月22日付の金沢貞顕の書状によれば、「太守御愛物」(高時の愛妾)である常葉前が同日寅の刻に男子を生んだことが書かれており〔、貞顕が「若御前」と呼ぶこの男子がのちの邦時であったことが分かる。同書状では高時の母(大方殿・覚海円成)や正室の実家にあたる安達氏〔高時の母は安達泰宗の娘(『尊卑分脉』・『保暦間記』・「北条時政以来後見次第」)、正室は安達時顕の娘である(細川「秋田城介安達時顕」P.151、典拠は『保暦間記』と『系図纂要』の安達氏系図)。〕一門が御産所へ姿を現さなかったことも伝えており、嫡出子ではない(庶長子であった)邦時の誕生に不快を示したようである〔永井『金沢貞顕』P.109。〕。
翌3年(1326年、4月嘉暦に改元)3月13日に高時が出家。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏円喜高資など)〔細川重男は、泰家の系統が執権を出す新たな家格として誕生することで、政権中枢を構成する特権集団の家格が相対的に低下することや得宗家そのものが分裂することを危惧して高資が泰家の執権就任を阻止しようとしたのではないかとする見解を述べられている(細川、2000年、P.321)。〕によって邦時が後継者に推される。但し、当時の邦時は生後三カ月(数え年でも2歳)の幼児であって得宗の家督を継いだとしても幕府の役職に就くことはできず、邦時成長までの中継ぎとして同月16日に長崎氏は連署であった貞顕を執権に就けるが、安達氏による貞顕暗殺の風聞が流れたこともあって貞顕は僅か10日で辞任(嘉暦の騒動)、代わって中継ぎの執権には赤橋守時が就任した。
この後元徳元年(1329年)の貞顕(法名崇顕)の書状には「太守禅閣嫡子若御前」とあって最終的に高時の後継者となったようであり〔(嘉暦4年/元徳元年12月付?)「崇顕(金沢貞顕)書状」。『金沢文庫古文書』武将編392号、『鎌倉遺文』39巻・30854号。〕〔、慣例〔時宗以降、時宗・貞時・高時はいずれも7歳で元服を行っている(細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.7・8・9)。〕に倣って7歳になった同3年(1331年)に元服が行われた。儀式は幕府御所にて執り行われ〔脚注2参照。尚、『吾妻鏡』によれば泰時経時時宗の元服は全て幕府の御所で行われ、貞時の場合も経時や時宗と同じく二棟御所の西侍が用いられたことが判明しており(『建治三年記』)、歴代得宗の元服は原則幕府御所で執り行われていた(山野龍太郎論文P.168~169)。例外的に、時頼の場合は当初は兄経時に対する庶子であったため、泰時邸内に新設された檜皮葺の御所に将軍・九条頼経を迎えて行われている(高橋慎一朗『北条時頼』P.19)。〕、将軍守邦親王偏諱を受けて邦時と名乗った〔山野龍太郎論文、注(27)(山本、2012年、p.182)。〕。
元弘の乱では、鎌倉陥落時に伯父である五大院宗繁に託され伊豆山に脱出したが、褒賞目当てに宗繁が新田義貞軍の船田義昌に密告したため相模川にて捕らえられ、鎌倉にて処刑された〔。享年9〔『鎌倉年代記裏書』元徳3年12月15日条(注5参照)に記載の元服時の年齢より算出。『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」にも「此人未だ幼稚の身なれば、…(略)…幼稚の主…」と邦時が幼少であることを示す表現が見られる。〕。
ちなみに宗繁は、主君であり自身の肉親でもある北条氏の嫡子を売り飛ばし、死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され逃亡し、時期は不明だが餓死したという〔。
== 略歴 ==
( )内は年齢(数え年)。
*正中2年(1325年11月22日:生誕。(1)
*元徳3年/元弘元年(1331年12月15日:幕府御所にて元服、「邦時」と称す。(7)
*元弘3年/正慶2年(1333年5月22日東勝寺合戦。父高時ら滅亡。この時、邦時は五大院宗繁に託されて伊豆山に脱出。(9)
*元弘3年/正慶2年(1333年)5月28日:刑死。(享年9)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北条邦時」の詳細全文を読む




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