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北条時頼 : ミニ英和和英辞書
北条時頼[ほうじょう ときより]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

北条時頼 : ウィキペディア日本語版
北条時頼[ほうじょう ときより]

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗北条宗政北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。
== 経歴 ==

=== 執権になるまで ===
若くして実父時氏と死別したため、祖父・北条泰時に養育される。幼い頃から聡明で、祖父・泰時にもその才能を高く評価されていた。1241年11月、12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄・経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父・泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが『吾妻鏡』に収録されている。しかし、『吾妻鏡』の成立年代を鑑み、この逸話は時頼が経時の系譜から結果として執権を強奪してしまったことを正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されている〔奥富敬之「鎌倉北条氏の興亡」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)〕〔高橋、2013年、p.25。〕。奥富敬之はこのエピソードを後世のでっち上げと断定している。一方で高橋慎一朗は、このエピソードで時頼が経時と違って静観という態度をとったことに、次男と言う立場から兄に遠慮して積極的な行動を取らない時頼の立場や性格が伺えると指摘する。また、泰時から褒美として村を一つ拝領したことは事実だが、これも三浦と小山の諍いに対して適切な行動をしたことに対する褒美ではなく、日頃の恪勤に対する泰時のねぎらいからの褒美であった。
嘉禎3年(1237年)4月22日〔、11歳にして元服征夷大将軍・九条頼経(藤原頼経)の偏諱(「頼」の1字)を賜り〔、五郎時頼を名乗る。同年、泰時の意向によって鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を担当。その後、左近将監、従五位上と昇進、この頃から、兄・経時が病気となり、重篤になってゆく。1245年、時頼は鶴岡八幡宮の大鳥居の検分を行っている〔高橋、2013年、p.38。〕。病状芳しくない経時の代理として、時頼が本来執権が担当するべき大事な仕事を代行したと考えられる。1246年になると経時の病状はさらに悪化し、その結果、一門、重臣達による、『神秘の御沙汰』と呼ばれる秘密会議が行われ、結果時頼は兄経時から執権職を譲られる〔高橋、2013年、p.39。〕。なお、奥富敬之は時頼が重篤の経時を無理矢理引退に追い込んで時頼が権力を掌握したという推論をしているが、高橋慎一朗は当時の時頼にそこまでの政治力はなく自分に執権の座が回ってくるように手配できたかは疑わしいと懐疑的な見解を述べている〔高橋、2013年、p.39-40。〕。経時には二人息子がいたが、執権は時頼に譲られることとなった。高橋慎一朗は、まだ息子二人が幼いことを憂慮した経時が、自分の意向で弟時頼へ執権を譲ったと推測している〔高橋、2013年、p.40-41。〕。その後経時は出家、程なく病死した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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