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井伊直幸 : ミニ英和和英辞書
井伊直幸[いい なおひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 

井伊直幸 : ウィキペディア日本語版
井伊直幸[いい なおひで]

井伊 直幸(いい なおひで)は、江戸時代中期の大名近江彦根藩第12代藩主(13代藩主、10代当主という数え方もある→参照 彦根藩。)
。江戸幕府の大老は初め直英(なおひで)、後に直幸。
== 経歴 ==
享保14年(1729年)7月21日、井伊直惟の次男として生まれる。彦根藩第8代藩主であった父・直惟が亡くなった時は、まだ5歳と幼少であったため、家督は叔父の直定に譲られた。直定に嫡子ができず、直幸の兄・直禔がその養子となったが、宝暦4年(1754年)に直禔が急逝し、幕命により直定が再び藩主となった。
。幕府は井伊家の血筋を重視して他家からの養子を許さなかったため、直英は直定の養子となり、宝暦5年(1755年)に直定の再隠居に伴い、晴れて藩主となった。
宝暦9年(1759年)12月12日、将軍徳川家重右大臣転任にともない、陸奥会津藩主・松平容頌とともに朝廷への使者を命じられる。なお、この人選は幕閣に工作し、上野前橋藩松平朝矩への内定を覆して実現したものであった。幕府内での序列(「譜代(将軍家家臣団)筆頭にして幕府大老の井伊家」と「親藩(将軍家親族)の筆頭格の一角である会津藩」、そして「親藩にして”将軍家の兄の家”である越前松平氏一門の朝矩」)を鑑みた上での工作であったと推測される。しかし宝暦10年(1760年)2月、養父・直定の病気を理由に使者を辞退、同じ溜詰の大名、讃岐高松藩主の松平頼恭徳川御三家水戸徳川家の支系・将軍家御連枝)と交代する。同年4月25日、朝廷への使者の務めを終えた松平容頌は左少将に任官、直幸は官職で序列を追い越されて、焦りを抱くようになる。同年9月6日、徳川家治の将軍宣下にともない、朝廷への使者を命じられる。その結果、同年12月6日、左少将に任官し、松平容頌と同格となる。同年、直英から直幸に改名した。
直幸はさらなる官位の上昇を目論む。宝暦13年(1763年)9月6日、徳川家基の山王社へのお宮参りに際し、井伊邸でもてなし、翌日、従四位上に昇進する。明和2年(1765年)、徳川家康の150回忌に際し、日光東照宮へ将軍の名代として参詣する。その際、幕府へ官位の昇進を願うものの、却下される。ただし、同年10月15日、翌年の家基の元服に際しての加冠役を命じられて、左中将に任官する。なお、同日、松平容頌は理髪役を命じられて、同じく左中将に任官している。
安永7年(1778年)2月23日、50歳に達したことやそれまでの功績を考慮されて、正四位上に昇進する。天明4年(1784年)11月28日には大老に任命された。大老在任中は実子の直富が藩政を執っていた。天明の大飢饉においても直幸の計らいで、領内各所に施粥場が設けられて藩の蔵から米が配られ、彦根藩では一人の餓死者も出さなかったといわれている。
幕政では田沼意次と共に執政していたが、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れたという噂もあった。天明6年(1786年)に将軍・家治が死去すると、若年寄で同族の井伊直朗大奥と共謀して次の権力の座を狙ったが政争に敗れ、天明7年(1787年)に大老職を辞する。
文芸にも造詣が深く、絵画や書を残している。
寛政元年(1789年)2月26日に死去した。享年61。世田谷の豪徳寺に葬られた。跡を六男の直中が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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