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天明の大飢饉 : ミニ英和和英辞書
天明の大飢饉[てんめいのだいききん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てん]
 【名詞】 1. heaven 2. sky 
天明 : [てんめい]
 【名詞】 1. dawn 2. daybreak
飢饉 : [ききん]
 【名詞】 1. famine 

天明の大飢饉 : ウィキペディア日本語版
天明の大飢饉[てんめいのだいききん]

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは、江戸時代中期の1782年天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本近世では最大の飢饉とされる。
== 概要 ==
東北地方1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日1783年4月13日)には岩木山が、7月6日8月3日)には浅間山噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた〔藤沢周平『藤沢周平全集 第23巻』、文藝春秋、1994年、198-199ページ〕。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている〔石弘之『歴史を変えた火山噴火 -自然災害の環境史-』、刀水書房、2012年、109-110ページ〕。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥で酷く、弘前藩(津軽藩)の例を取れば死者が十数万人に達したとも伝えられており〔『詳説日本史研究』、山川出版社、289頁〕、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる〔石井寛治『日本経済史』、東京大学出版会、77頁〕。
農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり、1787年(天明7年)5月には、江戸大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたという〔松井今朝子「江戸の異常気象」、日本経済新聞2015年7月24日付夕刊〕。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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