翻訳と辞書
Words near each other
・ 松平家次
・ 松平家治
・ 松平家清
・ 松平容住
・ 松平容保
・ 松平容大
・ 松平容敬
・ 松平容衆
・ 松平容詮
・ 松平容貞
松平容頌
・ 松平寛未
・ 松平實胤
・ 松平寿子
・ 松平尚栄
・ 松平広忠
・ 松平康乂
・ 松平康任
・ 松平康俊
・ 松平康保


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

松平容頌 : ミニ英和和英辞書
松平容頌[まつだいらかたのぶ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

松平容頌 : ウィキペディア日本語版
松平容頌[まつだいらかたのぶ]

松平 容頌(まつだいら かたのぶ)は、陸奥国会津藩の第5代藩主。会津松平家第5代。第4代藩主・松平容貞の長男。
== 生涯 ==

=== 藩政改革、始動 ===
寛延3年(1750年)11月12日、家督を相続する。宝暦6年(1756年)9月15日、将軍徳川家重御目見する。同年12月18日、従四位下に叙位。侍従に任官し肥後守を兼任する。宝暦9年、初めて会津にお国入りする。宝暦10年3月22日、将軍家重の右大臣転任にともない上洛し、同年4月25日、左近衛権少将に転任する。肥後守如元。
これに対し、彦根藩井伊直幸は、焦りを抱いて官位昇進に熱心に取り組み、容頌も対抗するようになる。明和2年(1765年)、徳川家康の150回忌に際し、官位の昇進を狙い、幕府に日光への使いとなることを申し出るものの、先例にないとして却下される。しかし、明和2年10月15日、徳川家基の理髪役を務めることになり、直幸とともに左近衛権中将に転任する。肥後守如元。また、明和7年(1770年)12月16日、正四位下に昇叙。左近衛権中将肥後守如元。さらに、安永7年(1778年)12月16日、正四位上に昇叙。左近衛権中将肥後守如元。
藩主となった頃、会津藩では財政が窮乏化して年貢増徴による財政再建を図ったが、百姓一揆という反対を受けて失敗していた。その上、天明の大飢饉により会津藩は大被害を受け、財政は破綻寸前となる。このような藩財政を再建するため、容頌は自分より6歳年下の田中玄宰天明元年(1781年)に家老として登用し、藩政改革を行なおうと考えた。しかし玄宰の登用に反対する保守派の動きや、玄宰自身が病気に倒れたということもあって、実際に改革が始まったのは天明5年(1785年)からのことであった。
玄宰は容頌の厚い信任のもとで、天明7年(1787年)に藩政改革の大綱を発表する。厳しい倹約令や華美な風俗の取り締まり、荒廃した農村復興や支配強化、殖産興業政策や特産品の売買奨励、教育の普及などがそれであった。倹約は特に厳しく、容頌もこれに協力するために自らの私的な生活費を切り詰め、参勤交代における経費なども大幅に削減した。
農村復興政策においてはそれまで城で命令だけを出していた代官や奉行らを直接、農村に赴かせて指導に当たらせた。また、均田制の導入なども行なっている。特産品売買においては蝋や漆の専売化、養蚕や漆器の生産制強化などを行なった。また、他国から酒造商人を招聘して、会津における特殊な酒を製造し、販売した。
そのほかにも朝鮮人参の栽培や紅花の栽培、製糸、機織、川魚の養蚕制などにも尽力し、寛政5年(1793年)には江戸の中橋に会津藩産物会所を創設して、江戸で国産品の多くを販売し、多くの利益を得た。
これによって財政再建は成されたのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松平容頌」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.