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バディ・ロバーツ : ミニ英和和英辞書
バディ・ロバーツ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

バディ・ロバーツ : ウィキペディア日本語版
バディ・ロバーツ[ちょうおん]

バディ・ロバーツBuddy "Jack" Roberts、本名:Dale Hey1945年6月16日 - 2012年11月29日)は、アメリカ合衆国プロレスラーオクラホマ州デル・シティ出身〔。
タッグの名手として知られ、1970年代ハリウッド・ブロンズ1980年代ファビュラス・フリーバーズなど、プロレス史に残る名タッグチームの一員となって活躍した。
== 来歴 ==
カナダブリティッシュコロンビア州バンクーバーで育ち、10代の頃はボディビルディングベンチプレスなどのスポーツで活動していた〔。友人となったレッド・マクナルティ(後のイワン・コロフ)の紹介により、カルガリースタンピード・レスリングでの準備期間を経て、1960年代中盤にモントリオール地区にてデイル・ロバーツ(''Dale Roberts'')のリングネームでデビュー〔。
その後アメリカに戻り、AWAを経て出身地オクラホマNWAトライステート地区に参戦。ビル・ワットのアイデアで髪をブロンドに染めてバディ・ロバーツ(''Buddy Roberts'')と改名し、1970年よりジェリー・ブラウンとのハリウッド・ブロンズ(''The Hollywood Blonds'')で活動。同年5月8日、トーナメントの決勝でビル・ワット&ダニー・ホッジを破りUSタッグ王座を獲得した。
以後、サー・オリバー・フンパーディンクマネージャーに、モントリオールフロリダロサンゼルスミッドアトランティックテネシーなどの激戦区を転戦。ロサンゼルスでは1975年2月にポークチョップ・キャッシュ&S・D・ジョーンズ、フロリダでは1976年10月にボブ・バックランド&スティーブ・カーン、ミッドアトランティックでは1977年1月にティム・ウッズ&ディノ・ブラボーなど、数々のチームを破り各地のタッグタイトルを奪取した。
この間、日本には「ブロンド・ボンバーズ」のチーム名で1971年10月に国際プロレスに初来日。残留参戦した11月末開幕のシリーズではラッシャー木村&サンダー杉山IWA世界タッグ王座に連続挑戦している。1974年1月にも国際に来日し、木村&グレート草津の同タッグ王座に再チャレンジした。1975年8月1日にはロサンゼルスに遠征してきたアントニオ猪木&坂口征二北米タッグ王座に挑戦。この試合はノーコンテストの判定が下され、タイトルは空位となる。翌月、雌雄を決するべく新日本プロレスに初参加。9月22日の王座決定戦で坂口&ストロング小林を破ってチャンピオン・チームとなったが、10日後の10月2日に猪木&坂口に奪回された〔。以降も新日本に度々参戦し、1979年8月の最後の来日では坂口&長州力の新王者チームに挑んでいる。
1978年デイル・バレンタイン(''Dale Valentine'')をリングネームジョニー・バレンタインの「弟」を名乗り〔、単身でテキサス地区に登場。3月24日にはヒューストンアル・マドリルを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得(2カ月後の5月28日にブルーザー・ブロディに奪取されている)。サンアントニオではタリー・ブランチャードを相手にサウスウエスト・ヘビー級王座を争った。
1979年にブラウンとのコンビを解消し、1980年よりビル・ワットのMSWAに進出。ここでマイケル・ヘイズテリー・ゴディファビュラス・フリーバーズ(''The Fabulous Freebirds'')と邂逅し、同年6月9日にはゴディと組んでバック・ロブレイ&ジャンクヤード・ドッグからミッドサウス・タッグ王座を奪取。その後、フリーバーズの3人目のメンバーとなり、若いヘイズとゴディをフォローアップするプレイング・マネージャーの役割を担った。
以降、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラスのWCCWを中心に、AWAやUWF(旧MSWA)などの主要団体で活躍。1984年8月には短期間ながらWWFにも登場した。WWF離脱後の10月には全日本プロレスに来日している。シングルでも、1986年1月6日にWCCWにてマーク・ヤングブラッドを、9月28日にはUWFにてテリー・テイラーをそれぞれ破り、各団体のTV王座を獲得した。
1988年に引退し、フリーバーズも一旦解散。その後1990年、ヘイズとジミー・ガービンによる第2期フリーバーズのマネージャーとしてWCWに登場したことがある。1996年に喉頭癌を患うが克服(WWE.comにヘビースモーカーだった彼の嫌煙メッセージが載せられている)。
晩年はシカゴに居住。2009年に入り、息子のバディ・ロバーツ・ジュニアがシカゴのインディー団体WCPWでデビューした。
2012年11月29日、67歳で死去。没後の2016年、ファビュラス・フリーバーズのメンバーとして、マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、ジミー・ガービンと共にWWE殿堂に迎えられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「バディ・ロバーツ」の詳細全文を読む




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