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エジプト第21王朝 : ミニ英和和英辞書
エジプト第21王朝[えじぷとだい21おうちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王朝 : [おうちょう]
 【名詞】 1. dynasty 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

エジプト第21王朝 : ウィキペディア日本語版
エジプト第21王朝[えじぷとだい21おうちょう]
エジプト第21王朝紀元前1069年 - 紀元前945年)は、第3中間期古代エジプト王朝。主に下エジプト上エジプト北部を統治し、南のアメン大司祭国家にも姻戚関係を通じて権威を及ぼした。新王国時代に比較して明らかに建造物の規模などが小さくなっており国力の弱体化を推測させるが、完全に無傷な状態で発見されたプスセンネス1世王墓が残されている。都をタニスに置いたことからタニス朝とも呼ばれる。
== 歴史 ==
第21王朝時代の歴史を記す史料は少なく、成立の経緯も詳らかではない。ただ、王朝開始の年代を紀元前1069年におくことはある程度広い支持を集めている〔参考文献『考古学から見た古代オリエント史』の記述による。〕。第20王朝の末期、第20王朝のラムセス11世とは別に上エジプトのテーベ(古代エジプト語:ネウト 〔紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。〕)にあるアメン神殿を中心にアメン神官団が事実上の独立勢力(アメン大司祭国家)を築き上げていた。そして下エジプトではスメンデス1世が独自にタニス市から海岸に至る三角州地帯を勢力下においていった。スメンデス1世はアメン大司祭国家がシリアに向けて派遣した使者ウェンアメンが記した報告書『ウェンアメン旅行記』に、事実上の下エジプト王として登場するネスーバネブジェドと同一人物であると考えられている。彼の経歴は不明であるが、ラムセス11世の時代に軍司令官の座についていた。そしてラムセス11世の死後、その娘を娶って王位を確立したと言われている。
スメンデス1世は第20王朝時代に王宮がおかれたペル・ラムセス(ラムセス市)を始めとした各地の古い建造物を解体し、その建材を使って新たな首都タニスを大改修して首都に相応しい都市に作り変えた。こうして根拠地を安定させた彼は、上エジプトのアメン大司祭国家に対しても権威を主張し、限定的ながらこれを認めさせることに成功した。このことは彼がテーベのカルナック神殿で建築活動を行っていることなどから確認される。
スメンデス1世死後、王位を継承したのはかつてのアメン大司祭ヘリホルの息子アメンエムニスウであった。彼の即位を巡っては激しい角逐があり、即位に反対した多くの人物がリビアへと追放された。
アメンエムネストの治世は短く、次いでプスセンネス1世が即位した。彼もアメン大司祭パネジェム1世の息子であり、母は第20王朝のラムセス11世の娘であった。プスセンネス1世の時代にはかつてアメンエムニスウ即位に反対して追放された人々の帰国が許可され、タニス政府とアメン神殿の間で関係改善が図られた。プスセンネス1世の娘イシスエムケブと、アメン大司祭メンケペルラーの間では婚姻が成立し、こうした濃密な血縁関係によって南北の王家の間に協力関係が構築された。このことはタニスで旧来崇拝されていたステク〔この神はアジア起源のバアル神と同一視された。〕(セト)神や、アジア起源のアスタルテ女神に変わってテーベの神であるアメン神、ムト神、コンス神の神殿が建てられたことなどからも証明される。
プスセンネス1世の長い治世の後、王子アメンエムオペトが、次いで大オソルコンと呼ばれた王が即位したものの、彼らの治世に関する具体的な記録はほとんど無い。
その後即位した王はパレスチナ地方の動乱に介入したかもしれない。旧約聖書サムエル記に登場する「エジプト人」、或いは列王記に登場し、カナン人の都市ゲゼルを攻略し、持参財としてソロモンの妃となったエジプト王女に与えたという王はシアメンにあたると言われている〔この時代に関する旧約聖書の史実性については古代イスラエルに関する該当記事を参照。〕。シアメンの王名が各地の記念碑文などに残されており、彼は比較的強力な王であったといわれている。
最後の王プスセンネス2世の治世についてもやはり詳細はわかっていない。彼は娘を傭兵としてエジプトのブバスティスに定住していたリビア人の有力者シェションクと結婚させた。この婚姻を軸にシェションク〔旧約聖書ではシシャク、マネトの記録にはセソンキスの名で言及されている。〕は軍司令官として勢力を拡張し、やがてはその血縁をもってエジプトの王位を主張、第22王朝を開き、第21王朝の勢力を継承した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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