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エジプト第13王朝 : ミニ英和和英辞書
エジプト第13王朝[えじぷとだい13おうちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王朝 : [おうちょう]
 【名詞】 1. dynasty 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

エジプト第13王朝 : ウィキペディア日本語版
エジプト第13王朝[えじぷとだい13おうちょう]
エジプト第13王朝紀元前1782年頃 - 紀元前1650年頃)は古代エジプトの王朝。第13王朝の時代は現代の学者によってエジプト第2中間期ないしエジプト中王国のいずれかに分類されている。第2中間期に分類する見解は、この王朝の時代に再び統一国家としてのエジプトが崩壊し分裂に向かっていくという点を重視したものであり、中王国に分類する見解はこの政権が第12王朝の延長線上にあることを重視したものである。
== 歴史 ==
イチ・タウィに首都をおいた第12王朝ではアメンエムハト3世(前1842 - 前1797)の死後、王位継承の混乱が生じた。次の王アメンエムハト4世(前1797 - 前1785)は恐らく生来王位継承権を持つ血筋の生まれではなく、王族の女性と結婚することでその地位を得た。第12王朝最後の王はセベクネフェル(前1785 - 前1782)という女王であったが、女王即位という事態は男系王統の断絶を示唆する。そして女王の死後、大家令であったヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフが一時王位を簒奪した。彼の名前にアアムサ(アジア人の息子〔訳語は参考文献『世界の考古学2 エジプトの考古学』による〕)と言う語が含まれている点は興味深いが、間もなく彼の政権は終わり、セベクヘテプ1世〔トリノ王名表の記録では第13王朝の最初の王はウガエフである。しかし近年の研究によってウガエフの治世は第13王朝の半ば頃であり、王名表で半ば頃に配置されているセベクヘテプ1世が最初期の王ではないかと考えられるようになった。これは両者が類似した即位名(クタウィラーとセケムラー・クタウィ)を持っていたために混同されたのではないかと言われている。ただしウガエフを初代王とする学者も多く、例えば参考文献の中では『ファラオ歴代誌』が最初の王としてウガエフの名前を挙げている。〕が王位について第13王朝が始まった。この間の事情ははっきりしないが、この王朝交代はエジプトの国家機構にそれほど大きな打撃を与えるものではなかったらしい。セベクヘテプ1世の記念物はエジプト全域に分布しており、彼の王家はイチ・タウィを拠点として依然統一王朝として全土を支配した。
しかし第13王朝の王権は極めて弱体化していたと見られる。マネト紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。〕の記録によれば第13王朝にはテーベ(古代エジプト語:ネウト)出身の60人の王がいたとされ、トリノ王名表には36人の王が記録されている〔参考文献『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』の記述による。〕。明らかに第13王朝の王達の平均在位期間は数年程度であった。このような状況にも関わらず第13王朝の政府機構は王朝が存続したほとんどの期間において正常に機能していた。これは第12王朝時代に長期間かけて作り上げられ、センウセルト3世(前1878 - 前1841)によって完成されていた官僚機構が第13王朝時代にも正常に機能していたためである。中王国の官僚組織は極めて完成度が高かったらしく、王権が弱体化しても事実上の統括者であった宰相を中心として国家を運営することが可能であった。
遺物が少ないため第13王朝の歴史を細かく明らかにするのは困難であるが、政治の実権を握る宰相職の世襲が進んでいたことがわかっている。セベクヘテプ2世(前1750年頃)時代の宰相アンクウは、次のケンジェル(前1747年頃)王の治世下でも権勢を振るい、その後彼の子供、孫へと宰相職が世襲された。このことが関係するのか必ずしも明らかではないが、アンクウの孫イイメルウが宰相となったセベクヘテプ4世〔セベクヘテプ4世は、前2世紀アレクサンドリアユダヤ人アルタバヌスの記録の中で「メンフィスより上流地方の王」と記されているケネフェレス王であるかもしれない。ナイル川下流域に対する第13王朝の支配が弱まった事を反映した記録であるといわれる。〕(前1730頃 - 前1720頃)の時代には下エジプトナイル川デルタ地帯)のクソイス出身とされる政権(第14王朝)がアヴァリス(古代エジプト語:フト・ウアレト)を中心とした狭い範囲を支配下において第13王朝の統制を離れ、エジプトの統一は再び失われた。
1つ明らかであるのはこの時代には下エジプトで、「アジア人」の勢力が増大していたことである。彼らアジア人は少なくても第1中間期以来、傭兵奴隷、そして時には外敵としてエジプトに入っていた。彼らはエジプト人の歴史叙述においては「侵入者」と見なされるが、実際には中王国時代にアジア系の高官が輩出しており、その人的交流は相当に活発であった。こうしたアジア人の地位向上が第13王朝の統制力を次第に弱めていったかもしれない。
セベクヘテプ4世の跡を継いだアイ王(前1720頃)は、第13王朝の王の中で上下エジプトにその名を記した記念建造物を残す最後の王である。彼の時代以降、下エジプト地方では地元の有力者やアジア系の有力者が政権を打ち立てて第13王朝の統制は完全に及ばなくなった。下エジプトでアジア系の人々が築いたとされるのが第15王朝であり、やがて彼らアジア系の支配者はヒクソス〔ヒクソスとは「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、''ヘカウ・カスウト''のギリシア語形である。この語は数百年以上前からシリアパレスチナ方面の首長達を指す語であったが、やがてエジプトで支配権を握ったアジア系の王を指す語として転用された。しかし同じ名前で呼ばれているとは言っても、数百年前のシリア・パレスチナの政治勢力といわゆる「ヒクソス」を同一視することはできない。詳細はヒクソスエジプト第15王朝エジプト第2中間期等を参照。〕と呼ばれるようになった。マネトの記録によればヒクソス(第15王朝)は第13王朝のトゥティマイオス王の時にメンフィスを陥落させてエジプトの支配権を握ったとされている。このトゥティマイオスとは恐らく他の史料に登場するドゥディメス1世であろうと言われている〔参考文献『考古学から見た古代オリエント史』、及び「ヒュクソスのエジプト支配」『西洋古代史論集1』の記述に基づく。〕。
彼以後、数名の最後の第13王朝の王達は恐らくはヒクソスの宗主権のもとで上エジプト(ナイル川上流)を統治したのであろうと言われている。こうしてエジプト第2中間期と呼ばれる分裂の時代がはっきりと訪れた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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