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エジプト第2中間期 : ミニ英和和英辞書
エジプト第2中間期[えじぷとだい2ちゅうかんき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中間 : [ちゅうかん]
 1. intermediary, intermediate, middle 2. midway 3. interim
: [けん, ま]
 【名詞】 1. space 2. room 3. time 4. pause 
: [き]
  1. (n,n-suf) period 2. time

エジプト第2中間期 : ウィキペディア日本語版
エジプト第2中間期[えじぷとだい2ちゅうかんき]
エジプト第2中間期紀元前1782年頃 - 紀元前1570年頃)は、古代エジプト史における時代区分の1つ。第13王朝から第17王朝までをこの時代に区分するのが一般的である。ただし、第13王朝や第14王朝中王国に含める見解もある。概ね中王国時代の統一が崩れ、下エジプトナイル川三角州地帯)にヒクソス(ヘカ・カスウト 異国の支配者達の意)と呼ばれる異民族が第15王朝を築いて支配を確立していた時代が第2中間期に分類される。第17王朝の王達による対ヒクソス戦争の結果、第15王朝は滅ぼされヒクソスの政権は瓦解。第2中間期の分裂は収拾され再びエジプトが統一、古代エジプト史上最も繁栄した新王国時代が始まる。
''ヒクソスについての詳細はヒクソスを参照''
== 概略 ==
エジプトには第1中間期時代から次第にアジア人を中心とした外国人を傭兵や奴隷などとして導入する動きが活発になった。既に第1中間期の文献にもアジア人に関する数々の記録が残されるようになっている。こうしてエジプト内に定着していった「外国人」たちは次第にエジプト国内で地歩を築き、中王国時代には高位の官職にも登用されるようになっていった。中王国は第12王朝時代に完成された官僚制によってエジプトを統治していた。第12王朝を引き継いだ第13王朝時代には王権が弱体化したものの、官僚達の最上位に立つ宰相を実質的な統治者としてなお全エジプトに支配を及ぼした。
王権の弱体化と関連するかどうか必ずしも明らかではないが、第13王朝時代末期には中王国はその統制力を失い、下エジプトで自立政権が誕生し、エジプトの統一は崩れた。下エジプトに打ち立てられた政権は慣習的に第14、第15、第16の3王朝に分類されているが、第14、第16王朝についてはいくつもの群小政権をまとめたものである可能性もある。
これら下エジプトで権力を握った人々の中にはシリア・パレスチナ系の名前を持っている者が頻繁に登場する。こういった異民族達はヒクソスと呼ばれる。この中でも一般に「ヒクソス」、「ヒクソス政権」などと呼ばれるのは第15王朝である。第15王朝は紀元前17世紀半ば頃までにはエジプトの首都メンフィスから下エジプト東部、そしてパレスチナに至る地方に直接支配を確立した。下エジプト西部では第16王朝に分類される諸首長が第15王朝の覇権の下で活動し、上エジプト(ナイル川上流)でも最有力のテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。〕)政権(第17王朝)をはじめとした諸侯が第15王朝の覇権の下に置かれた。
第15王朝、即ちヒクソスによる支配は後世のエジプト人の記録では暴力と悪に満たされた野蛮な統治であったとされている〔マネトによる記録もまたこうした見解の代表格である。〕が、現代の学者はこのようなエジプト人の歴史観を基本的に支持していない。少なくてもヒクソスの人々はいくつかの外来の風習〔例えば戦車の使用、ロバの殉葬の風習、シリア的な建築様式の導入等。ただし、ヒクソスとエジプトにおける戦車の使用を関連付けることには異論もある。詳細はヒクソスを参照。〕をもたらしたことを除けば、エジプト文化をとりいれていたし、国家機構もその多くはエジプトの旧来のものを引き継いでいた〔例えばヒクソス時代にもそれ以前からのエジプト官僚が継続して任用されていた事実、また第15王朝の王達がエジプトの伝統的慣習にのっとってカルトゥーシュとラー神名を構成要素に含む即位名(上下エジプト王名)を用いていたことなどがこれを示す。〕。
ヒクソスの覇権の下に甘んじていた第17王朝は、やがて反ヒクソスの軍事行動を起こした。セケンエンラー(前1574頃)王が始めたこの軍事行動は、彼の二人の息子、カーメスイアフメス1世によって引き継がれ、最終的にイアフメス1世は紀元前16世紀半ば頃までに第15王朝を滅ぼしてエジプトからヒクソス勢力を一掃し、これを追ってパレスチナまで支配下に納めた。こうして再びエジプトは統一され、古代エジプト史上最も繁栄した新王国時代が始まる〔第2中間期の第17王朝と、新王国時代最初の第18王朝は完全に連続した政権である。詳細はエジプト第17王朝エジプト第18王朝を参照。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エジプト第2中間期」の詳細全文を読む




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