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エジプト第5王朝 : ミニ英和和英辞書
エジプト第5王朝[えじぷとだい5おうちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王朝 : [おうちょう]
 【名詞】 1. dynasty 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

エジプト第5王朝 : ウィキペディア日本語版
エジプト第5王朝[えじぷとだい5おうちょう]

エジプト第5王朝紀元前2494年頃 - 紀元前2345年頃)は、エジプト古王国時代の古代エジプト王朝。エジプト第4王朝時代に引き続いてピラミッドの建設が行われた。第5王朝のピラミッドは第4王朝に比べて遥かに小規模であるが、ピラミッド・テキストと呼ばれる碑文がはじめて残されるようになる時代であり、歴史的重要性は前王朝にひけを取らない。太陽神ラーへの信仰が非常に強まった時代でもあり、宗教的にも後代のエジプトに大きな影響を残した。
== 歴史 ==
エジプト第5王朝の最初の王とされているのはウセルカフマネト紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。〕の記録ではウセルケレス)である。ウセルカフは第4王朝の王ジェドエフラーの王女ネフェルヘテプ(またはネフェルヘテペス)の息子として生まれた。彼の父の名は知られていない。そして同じく第4王朝の王であるメンカウラー(ジェドエフラーの甥にあたる)の王女ケンタカウエス1世を妻として王座についた。このようにウセルカフは第4王朝の王族と極めて濃密な血縁関係を持っているが、少なくてもマネトはウセルカフの即位を持って王朝の交代と見なしており、現代の区分もそれに従っている。
ウェストカー・パピルスと呼ばれるパピルスにヒクソス紀元前18世紀-16世紀前後)時代に記述された文学作品『』には、魔法使いジェディがクフ王に対し、クフ王の王朝が彼の子供カフラーとメンカウラーの間だけ続くこと、そして太陽神ラーが、ラー神官の妻に産ませた三つ子、ウセルカフサフラーネフェルイルカラー・カカイらの新しい王家に王位を奪われるであろうと予言したと記録されている。この物語に史実的要素を見出すのは困難であるが、エジプトではマネトより1500年以上以前には既にウセルカフの即位が王家の交代であると見なされていたことを確認できる点が非常に重要である。即ち、ウセルカフの即位を持って王家が交代したと見なす考え方はマネトの独自見解ではなく、エジプト社会における極めて伝統的な歴史認識であった。
マネトは第5王朝の王達がエレファンティネ(古代エジプト語名アブー、現在のジャジーラ・アスワン)出身であると記録しているが、この点に関しては他に傍証は無い。王朝の祭儀や行政的な面ではラーを祭るヘリオポリス(古代エジプト語名イウヌ)が重要であった。ウセルカフが王位を獲得した実際の経緯は不明瞭であるが、彼の持つ第4王朝の王族との姻戚関係が重要な要素であったことは疑うべくもない。また、ウセルカフ以降の第5王朝の王達は太陽神殿を次々と建設しており、ラーに対する寄進を熱心に行っていたことも知られている。このことからラー神官たちもウセルカフの王位獲得になんらかの役割を演じたであろうことが推定される〔ラー神官の動静に関する史料は少なく、慎重な意見も多い〕。しかしウセルカフの政治上の活動について具体的なことは何も知られていない。
ウセルカフの息子サフラーの治世にはアジア(現在のレバノンパレスチナ地方)やリビアへの遠征が行われた。このことはサフラーが建設したピラミッドに残された彩色壁画から知ることができる。またパレルモ石と呼ばれる碑文の記録によれば、彼の治世にはプント(恐らく現在のソマリア地方)との交易が行われたとあり、サフラー時代の第5王朝社会の活発な様子が伺われる。サフラーの死後、恐らくは彼の弟であるネフェルイルカラー・カカイ(カカイ・ネフェルイルカラー)が即位した。ネフェルイルカラーは第5王朝の王の中では最大のピラミッドを残している。
ネフェルイルカラーの後の数名の王は統治年数が短く記録も乏しい。ネフェルイルカラーの跡を継いだのはシェプセスカラー・イシ(シェプセスカラー)であった。シェプセスカラーのものではないかと推定される建造物がいくつか発見されているが、その実態については何もわかっていない。一説にはサフラーの息子であったと言われているが不詳である。シェプセスカラーの次にネフェルイルカラーと王妃ケンタカウエス2世の息子だったネフェルエフラーが即位した。しかし彼の治世も短かったであろうと推定されている。ネフェルエフラーの墓から、彼のミイラの一部が発見されているが、その分析の結果ネフェルエフラーは20代前半で死去したことがわかっている〔http://www.ancient-egypt.org/index.html 内、5th Dynasty、Neferefreの項目を参照〕。
ネフェルエフラーの死後、彼の弟であるニウセルラーが王位を継いだ。マネトはニウセルラー(マネトの記録ではラトゥレス)が44年間にわたって統治したと記録するが証拠は乏しい。しかし、彼の治世が比較的長いものであったことは現代の学者によって支持されている。ニウセルラーはシナイ半島での勝利を描いた碑文を残しているが、実際の戦勝を記念したものか、単に「王の勝利」を象徴したものかはわかっていない。ただ、実際にシナイ半島方面での軍事活動は行われていたと考えられている。そして非常に規模の大きい太陽神殿を建設しており、強力な王であったと考えられる。
次のメンカウホルについては記録が少なく、わかっていることは少ない。メンカウホルの次のジェドカラー王についても同様であるが、ジェドカラーの名がネフェルイルカラー王の葬祭殿跡で発見されたパピルス文書の断片に登場し興味深いものである。これは現在までに知られている最古のパピルス文書である〔参考文献『考古学から見た古代オリエント史』参照。〕。またジェドカラーに仕えた宰相プタハヘテプは、第3王朝時代のイムヘテプなどと並ぶ賢人として古代エジプトで名を知られることになる人物であった。また重要な変化として、ジェドカラー王は太陽神殿を建設していない。
彼の次の王も太陽神殿を建設しておらず、エジプト第5王朝における宗教勢力の変動が推定されうる。最後の王ウナスにはマネトらの記録によって長期の統治期間があったことが知られているが、彼についてもあまり知られていない。ウナスに関連した重要事項はピラミッド・テキストの登場である。従来ピラミッドの内部には碑文等は何も記されないものであったが、ウナス王の時代になって初めて王の葬儀の際に唱えられた呪文などが記録されるようになった。この文書から当時のエジプト人の死生観や宗教観が読み取ることができる。恐らくウナス王のピラミッド・テキストの内容は、パピルスかもしくは口伝によって伝えられてきたより古い文書形式を反映していると考えられている。そのため宗教史的、また政治史的に重要な史料となりうるのである。ウナス王は長期にわたって王位にあったにも関わらず男子に恵まれなかったという。そのため死後に深刻な後継者問題が生じた。
政治混乱の末、紀元前2345年頃にウナス王の娘とされるイプト1世〔ウナス王の親族関係についてはほとんどわかっていない。イプト1世をウナス王の娘とする見解も確実ではない〕を妻としたテティ1世が王座を獲得した。マネトはこれをもって第5王朝と第6王朝の交代としており、他の史料もこの見解を支持している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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