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エジプト第4王朝 : ミニ英和和英辞書
エジプト第4王朝[えじぷとだいよんおうちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王朝 : [おうちょう]
 【名詞】 1. dynasty 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

エジプト第4王朝 : ウィキペディア日本語版
エジプト第4王朝[えじぷとだいよんおうちょう]

エジプト第4王朝(えじぷとだいよんおうちょう 紀元前2613年頃 - 紀元前2494年頃)は、エジプト古王国時代の古代エジプト王朝。古代エジプト文明を代表する建造物であるギザの大ピラミッドを建設した王朝であり、そのピラミッドを建設した王としてクフ王、カフラー王、メンカウラー王の名は広く知られている。政治史的にも文化史的にも極めて重要な王朝であり、その文化遺産は近現代にまで影響を及ぼし続けている。
== 歴史 ==
マネト紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。〕は、エジプト第4王朝が「異なる家系に属する」8人のメンフィスの王によって統治されたと記録している。マネトによる記録は、古い時代については王統等が不正確な場合が多いが、第4王朝時代になると王名等においては明らかに同定可能なものも登場する。他にヘロドトス紀元前5世紀ギリシアの歴史家。〕やディオドロスもこの王朝の王に言及した記録を残している。
同時代史料や古代エジプトの文献史料から知られる第4王朝最初の王はスネフェルである。彼は上エジプト第16県〔上エジプト第16県の大まかな位置についてはこちらを参照。〕で生まれた。そのため、第16県は彼が王位についた後メナト・スネフェル(「スネフェルの乳母」の意)と呼ばれるようになった。スネフェルはエジプト第3王朝の最後の王フニと第1王妃の間の王女、ヘテプヘレス1世と結婚したことで血統的正統性を確保し、やがてフニ王の没後にエジプトの王位を獲得することに成功した。また彼自身もフニ王と王妃メルサンク1世の息子であったと考えられる。スネフェルはホルス名ネブマート(正義の主)を名乗りエジプト第4王朝が始まった。
スネフェル王は非常に強力な王であったらしい。スネフェルについての記録は多いとは言えないが、彼の即位については『カゲムニに対する教訓』と呼ばれる文学作品に記録が残されている〔カゲムニはスネフェル王の即位時に新しい職を任じられたとされる家臣。〕。治世中の活動としては、パレルモ石と呼ばれる後代の碑文によれば彼は治世第2年にヌビアに侵攻して勝利を収め、7000人の捕虜と20万頭の家畜を獲得したという。ヌビアへの侵攻はエジプト第1王朝第2王朝時代にも記録があるが、恐らくスネフェル王によるヌビア侵攻は初めてヌビアの完全服従を達成した。シナイ半島方面への外征も記録されており、遊牧民を駆逐してシナイ半島の鉱山に対する支配を磐石のものとした。
一方で国制の整備も急速に進められ、体系的な行政組織が形作られた。スネフェルの王子ネフェルマート宰相に就任した。この職は行政組織の最高位とされ、その下に国庫管理・建築労働を統括する諸部門がおかれた。上位官職は王族の独占とされ、王を頂点に一元管理される組織が形成されはじめたのである。スネフェルは第3王朝時代のピラミッド建造を引き継ぎ、大規模ピラミッドを複数建設している。彼の時代のピラミッドは、より整備された形状を目指した技術的な模索の跡が見て取れる。こうした努力はやがてスネフェルとヘテプヘレス1世の子、クフが王位を継いだ後にクフ王の大ピラミッドとなって結実することになる。こういった大規模建築を支えたのが、整備された行政組織とそれによって齎される領土からの歳入や、労働力の集約であった。
スネフェルの跡を継いだクフ王は、父と同じ上エジプト第16県で生まれた。クフ王は王位について後、父が進めた行政組織の整備と外征を引き継いだと考えられる。彼は父と同じくシナイ半島に出兵し、鉱山を「守護」したという。クフ王の時代の特筆すべき事業はギザにおけるピラミッド建設である。彼の立てたギザのピラミッドは高さ146メートル、一辺約230メートルという巨大建造物であり、建設には20000人から25000人の労働力が必要であったといわれている〔この必要人員の数値は畑守泰子「ピラミッドと古王国の王権」『岩波講座世界歴史2』の記述によった。〕。これはヘロドトスによる記録に比べ少ない〔ヘロドトスの『歴史』にはまず道路と地下室を建設するために常に10万人が3ヶ月交代で働き、苦役は10年に及んだ。ピラミッド自体の建設には更に20年を擁したとある。『歴史』第2巻を参照〕が、当時のエジプトの推定人口の1%以上であり、クフ王時代の第4王朝の国力を示して余りある記念碑である。
クフ王の没後に王位をついだのはクフ王の息子ジェドエフラー〔王名ラージェドエフと記す書籍もある。ここでは英語版を参考としてジェドエフラー表記を採用している。〕であった。ジェドエフラーの治世は8年〔ギザのネクロポリスには隔年の人口調査を11回行ったと刻まれており、20年以上在位したとする説もある〕と短く記録も乏しいが、重要なことが分かっている。それは、ジェドエフラーが歴史上初めて自らを「太陽神ラーの子」としたことである。この姿勢は後のエジプト王に受け継がれていくことになる。ジェドエフラーの後、彼の異母兄弟にあたるカフラー〔ラーカフ、あるいはラーカエフと表記する古代文献もある。しかし一般に彼の名はカフラーと表記される。〕が王位を継いだ。カフラーもまた父と同じく巨大ピラミッドの建造によって名高い。彼のピラミッドはアスワン産の赤色花崗岩がふんだんに使われており、ナイル川の上流域まで安定した支配が及んでいたことが伺える。ヘロドトスはこのことに言及しカフラー(ケプノス)のピラミッドにはエチオピアの石が使われていると述べている。
カフラー王の次代の王は、恐らくはマネトの記録にある統治年数不明の王にあたる人物で、短い統治があったと推定される。そのエジプトでの名前は、碑文からバカ(Ba-Ka)もしくはバウエフラー(Bau-ef-Rê)であると考えられるが、確定していない。その後カフラー王と王妃カメレルネブティ1世の子メンカウラーが王位を継いだ。メンカウラーもまたギザの大ピラミッドの建設者であるが、彼の建造したピラミッドは先の2基に比べてかなり小ぶりになっている。これを国力減退の証拠と見るかどうかは学者間で立場が必ずしも一定しないが、彼以後のピラミッドの規模が急激に縮小している点は重視される。ヘロドトスはメンカウラー(ミュケリノス)が、かつてエジプトに君臨した王の中で最もエジプト人に賞賛されているとして、空想的な寓話をいくつも記録している〔ヘロドトスはメンカウラーの「善政」とは別に、大ピラミッドを建造したクフ王とカフラー王の治世はあわせて106年間であり、この時代をエジプト人は最も過酷な時代として記憶し、言語に絶する苦難に沈んだ時代であるとしていたという。更にエジプト人は憎しみのあまりクフ王やカフラー王の名前すら口にしなかったと記録している。『歴史』第2巻参照〕。
メンカウラーの後の第4王朝の歴史は不明瞭である。少なくてもシェプセスカーフという王がいたことがわかっており、ジェドエフプタハという王もいたと推定される。しかし彼らの治世は極めて短く、間もなくエジプト第5王朝の時代に入る(紀元前2494年頃)。ヒクソスエジプト第15王朝第16王朝第17王朝)時代に記されたと考えられるウェストカー・パピルスと呼ばれる文書に記された『』には第4王朝と第5王朝の交代が次のように描かれている。
クフ王が気晴らしのために王子達に珍しい物語(奇蹟〔奇蹟という訳語は参考文献「ウェストカー・パピルスの物語」『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に由来する。この物語については『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に全文の和訳が掲載されている他、こちらのサイト で、「三人の王たちの誕生にまつわる物語」と言うタイトルで西村洋子による訳文が解説付きで公開されている。〕)を語るように命じた。王子達は様々な物語を披露したが、最後の王子は物語を語るのではなく魔法使いのジェディを連れてきてクフ王の前で奇蹟を演じさせた。クフ王はジェディに未来を問うと、ジェディはクフ王に予言を聞かせた。「あなたの王朝はあなたの息子カフラーと孫のメンカウラーの治世の間だけ存続することでしょう。そして太陽神ラーの子孫であり、下エジプトの太陽神の聖地に仕えるラー神官の妻の子孫として生まれる新しい王家により王位を奪われることになるでしょう。」その後、レドジェデトはイシス神、ネフティス神、メスケネト神、ヘケト神、クヌム神の助けを得て三つ子を産んだ。三人の子にはイシス神によってウセルカフサフラーカカイ・ネフェルイルカラーの名が与えられた。
その後の物語の末尾部分は失われているが恐らく予言通り第4王朝と第5王朝が交代したことが綴られていたと考えられている。この物語は到底史実として見ることは出来ないが、王朝の交代(つまり簒奪)を、神王たる王の権威を損ねないように説明しようとした第5王朝のプロパガンダを反映していると考えられている。ラーの子孫ということを強調したこの物語は、ヘリオポリスの太陽神祭儀とその神官職の重要性が増大した当時の社会情勢を写したものであると考えられる。第4王朝の王はラーの子を名乗り、ラー信仰に接近はしたが、クヌム〔クヌム神はスネフェルらの出身県である第16県で有力な神であった。〕を初めとした他の神々をも重視し、ラー信仰とは一定の距離を置いていた。一方で次の第5王朝ではラーの子孫という点に王の正統性が強く求められており、王朝の交代劇にはラー神官達が強く関わったであろうと推定される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エジプト第4王朝」の詳細全文を読む




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