翻訳と辞書
Words near each other
・ 顔合せ
・ 顔合わせ
・ 顔向け
・ 顔回
・ 顔子淵
・ 顔射
・ 顔少博
・ 顔師伯
・ 顔師古
・ 顔延之
顔延年
・ 顔弓
・ 顔形
・ 顔役
・ 顔恵慶
・ 顔恵民
・ 顔戸村開成所
・ 顔戸駅
・ 顔振峠
・ 顔撫ぜ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

顔延年 : ミニ英和和英辞書
顔延年[ねん, とし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

延年 : [えんねん]
 (n) longevity
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

顔延年 ( リダイレクト:顔延之 ) : ウィキペディア日本語版
顔延之[がん えんし]
顔 延之(がん えんし、384年 - 456年)は中国南北朝時代の文学者。は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。
==略歴==
顔延之は曾祖父に東晋の右光禄大夫顔含を持つなど、門閥貴族の家柄に生まれたが、父親を幼少の頃に失ったことから没落し、家は貧しかったという。顔延之は読書を好み、目にしない書物はなく、詩文の美しさは当時に卓越していたが、酒に酔うと細かい礼法を無視した振る舞いをし、30になっても独身であった。顔延之の妹は劉裕(のちの宋の武帝)の腹心劉穆之の息子の妻であり、劉穆之も顔家と代々のよしみで、顔延之の才能の評判も聞いていた。このため劉穆之は彼を仕官させようと思い、その前に会っておこうとしたが、顔延之は会いに行こうとしなかった。後に後将軍劉柳の行参軍となる。415年義熙11年)、劉柳が江州刺史となると、その功曹として治所の尋陽(現在の江西省九江市)に赴任し、当地に隠棲していた陶淵明と知り合い、年齢を超えて親しく交際した。後年陶淵明が死去すると、顔延之は「陶徴士誄」を著しその死を悼んでいる。
416年、劉裕が後秦征服の遠征を起こして西晋の旧都洛陽を回復すると、朝廷では彼に宋公の爵位を授けることとなり、顔延之は勅使として洛陽に赴いた。この道中に作った詩2首〔『文選』所収の「北使洛」「還至梁城作」の2首か〕は、重臣の謝晦傅亮の賞賛を浴びた。420年、宋が建国されると、顔延之は太子舎人に任じられた。
当時、尚書令の傅亮は自分の文才を自負していたが、顔延之も自らの才能を負けずに誇ったため、傅亮は彼をひどく憎んだ。また皇太子劉義符(のちの少帝)のすぐ下の弟、盧陵王劉義真は謝霊運・顔延之らと親密で、自らが皇帝になることがあれば、彼らを宰相に任ずると公言しており、徐羨之ら重臣たちから強く警戒されていた。このため422年に少帝が即位すると、顔延之は徐羨之らの策謀によって、盧陵王から引き離され、始安郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)の太守として都から出された。
文帝即位後の426年元嘉3年)、徐羨之・傅亮らが誅殺されると、顔延之は都に呼び戻され、中書侍郎・太子中庶子・歩兵校尉を歴任した。だが顔延之は劉湛殷景仁らが重臣として要職を独占していることに不満で、彼らにしばしば逆らった。劉湛(前述の劉柳の子)に対し「私の官位が昇進しないのはお前の家の下働きをしていたからだ」と言ったことで彼の怨みを買い、434年、劉湛と彭城王劉義康により永嘉太守(現在の浙江省温州市)に左遷させられることになった。顔延之がこれに憤慨し、竹林の七賢の5人に自らをなぞらえた「五君詠」を作ると、劉湛と劉義康は詩の内容が傲慢だとしてさらに怒り、顔延之は以後7年間の蟄居謹慎を余儀なくされた。436年、東晋の恭帝の皇后の葬儀の際、顔延之に侍中任命の命令が下ったが、酒に酔っていた顔延之は届けられた文書を地面に投げつけ、「生者に仕えることもできないのに、死者に仕えることなどできるものか」と言い放ったという。
440年、劉湛が誅殺されると、始興王劉濬の諮議参軍と御史中丞を兼任したが、仕事ぶりはいい加減で、官吏の不正をまったく取り締まらなかったという。国子祭酒・司徒左長史に転任したが、不正行為に連座し弾劾されて免官となった。後に秘書監・光禄勲太常を歴任し、453年に致仕を願い出て許される。同年、皇太子劉劭が父の文帝を殺害すると、彼によって光禄大夫に任じられた。孝武帝が即位すると金紫光禄大夫となり、湘東王劉彧(のちの明帝)の教育係を兼任した。456年孝建3年)死去、享年73。散騎常侍と特進を追贈され、憲子とされた。
顔延之は偏狭で感情が激しく、酒に酔ってはしばしば他人を攻撃し、まったくはばかることがなかった。一方で身の処し方は慎ましく、財産に興味はなく、つねに粗末な衣食で間に合わせていた。息子の顔竣が孝武帝の重臣として権勢を誇っていた時も、顔延之は息子からの支給を一切受け付けず、もとの粗末な屋敷に住んでいた。村里に遊びに出かけ、旧知の者に会うたびに、馬に乗ったまま酒を所望し、酒がもらえればご機嫌だった。郊外の野原で独酌し、心にかなっている時は、いつもそばに人がいないかのように振る舞っていたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「顔延之」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.