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長谷川和彦 : ミニ英和和英辞書
長谷川和彦[はせがわ かずひこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
谷川 : [たにがわ]
 【名詞】 1. mountain stream 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

長谷川和彦 : ウィキペディア日本語版
長谷川和彦[はせがわ かずひこ]

長谷川 和彦(はせがわ かずひこ、1946年1月5日 - )は、日本の映画監督。愛称ゴジ広島県出身。
== 経歴 ==
広島県賀茂郡西高屋町(現:東広島市)に出生〔青春の殺人者 | 広島国際映画祭 | HIFF 〕。父は農業協同組合勤務、母は教師で三人兄弟の末弟。1945年8月、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射線を浴び、胎内5ヵ月のため胎内被曝となった〔。4歳からABCC(現・放射線影響研究所)で定期検診を受けた〔中島丈博「熱気あふれる『青春の殺人者』伊豆・下田ロケ訪問」『キネマ旬報』1976年10月下旬号、77−79頁〕。被曝2世の自分は早死にすると思い、人生を生き急ぐ原因となったとインタビューで語る〔『キネマ旬報』2011年3月下旬号、p.143〕〔「わくわくすることを求め続けて 長谷川和彦インタビュー」『毎日ムック―シリーズ 20世紀の記憶 かい人21面相の時代 1976-1988』(2000年、毎日新聞社)pp.26-27〕。
広島市翠町(現:南区翠町)で育ち、広島市立皆実小学校から広島市立翠町中学校を経て広島大学付属高校へ進む〔。翠町中学の一学年下に吉田拓郎〔。広大付属高の同級に鳥取県米子市長・野坂康夫ら〔高校時代の思い出/米子市ホームページ 〕。高校時代はジャズに熱中、テナーサックスを吹きバンドも組んで、ジャズミュージシャンを目指したが挫折〔。
高校卒業後は東京大学文学部英文科に進んだ。在学中は大学闘争真っ盛りの時期だったがそれには参加せず、ボート部を経て〔田山力哉『新しい映画づくりの旗手たち』(1980年、ダヴィッド社)pp.214-221〕、アメリカンフットボール(アメラグ)に熱中し、フットボール部ではキャプテンにもなった〔香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』(2004年、河出書房新社)pp.276-279〕。「麻雀とアメラグだけのノンポリフーテンだった」と話す。英文科に3年在籍、のち映画監督を目指して美学科に変わる。
大学に通う傍ら、映画監督との出会いを求めて、夜にはシナリオ研究所で映画監督の浦山桐郎のゼミを受講。浦山から今村昌平の今村プロの助監督試験を紹介されて、合格〔今村昌平「長谷川和彦という男」『キネマ旬報』1976年10月下旬号、109頁〕。在学5年目の1968年、今村プロに入社。卒論を残すのみだったが、大学は今村の命令で中退〔。映画『神々の深き欲望』の制作スタッフについて沖縄ロケに参加した〔。沖縄ロケでの資金枯渇や未払いなど残務処理など今村組での体験によって、今村昌平流の粘る映画作りがすり込まれ、後の日活時代の助監督生活も苦しいと思ったことはないという〔香取、2004年、pp.281-283〕。
今村プロ時代に、24歳で結婚〔。家賃2万円のボロ家の今村プロ事務所に、管理人夫婦を兼ねて住んだ〔香取、2004年、p,290〕。1970年の今村監督の『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』には助監督としてつき、その後も1981年に映画化された『ええじゃないか』の資料調べをするなど〔香取、2004年、p.293〕、3年ほど今村プロに在籍。しかし今村プロが開店休業状態のため仕事がなく、他の独立プロで仕事をしたいと今村に申し出。日活の臨時雇いの契約助監督の仕事を、あくまで出向だぞと釘を刺されながら今村から紹介され〔香取、2004年、pp.295-296〕、1971年に日活契約助監督となる。
日活では小沢啓一藤田敏八西村昭五郎神代辰巳らの作品に付く傍ら、『濡れた荒野を走れ』、『青春の蹉跌』、『宵待草』、テレビ『悪魔のようなあいつ』などのシナリオを書き注目された。長谷川は日本映画のプログラムピクチャーシステム体験(大手映画会社で助監督経験)を持つ最後の世代となる〔佐藤隆信『黒沢清の映画術』(2006年、新潮社)p51〕。神代辰巳が監督した1974年の『青春の蹉跌』では脚本のみならず、ラストシーンとなるアメフトシーンの撮影を担当〔「談盟友、そして仇敵が死んだ 長谷川和彦vs荒井晴彦」『映画芸術』2002年夏・秋合併号 NO.401(編集プロダクション映芸)p.27〕。
日活時代には、『卓のチョンチョン』というロマンポルノと『燃えるナナハン』という一般映画の監督をする話が2度あったが、正社員の社員助監督ではなく契約助監督だったことから、いずれも労働組合の反対で流れる。政治に関わらないノンポリだったにも関わらず、日活撮影所を仕切る日本共産党系労働組合からトロツキスト呼ばわりされる形で撮影所を追い出され、日活に見切りをつけ〔〔〔『映画芸術』NO.401、p.27〕〔『シネアルバム126 相米慎二映画の断章』(1989年、芳賀書店)pp.54、65〕、1975年よりフリーとなる。同年には原田芳雄コンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」を演出〔『キネマ旬報』2011年9月下旬号、p.66〕。
1975年〔長谷川和彦「顔と言葉 非現実的な予算の中で」『キネマ旬報』1976年9月下旬号、59頁〕、長谷川の噂を聞きつけたATGの多賀祥介に話を持ちかけられ〔、中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』により翌1976年監督デビュー。製作が決まってクランクインまで丸一年を要した〔。「30歳の新鋭映画監督登場」、「ニューシネマの旗手」〔「八面六臂の『猶予』大活動の甲斐なく長谷川監督の『入獄』前夜」『週刊新潮』1983年3月3日、pp.140-143〕として話題を呼ぶ。この作品はその年のキネマ旬報ベスト・ワンに選ばれるなど、高い評価を受け、多くの映画賞を独占。新人の第1回作品がベスト・ワンになるのは異例であった〔田山力哉『新しい映画づくりの旗手たち』(1980年2月、ダヴィッド社)p224〕。長谷川に引っ張られるように、次々に映画界に若手監督がデビューした〔。相米慎二は「長谷川は映画を動かす時代の始まりだった」と述べている〔『シネアルバム126 相米慎二映画の断章』(1989年、芳賀書店)p.74〕。
1978年小林信彦の小説『唐獅子株式会社』の映画化に取り組むが、脚本が難航して流れる〔小林信彦『コラムは笑う エンタテインメント評判記 1983-1988』(1989年、筑摩書房)p.10〕〔小林信彦「本音を申せば 連載 第577回 なつかしい人、笠原和夫2」『週刊文春』2009年11月5日号、p.54〕〔小林信彦『森繁さんの長い影 本音を申せば6』(文春文庫)〕。また、角川の大作『人間の証明』は、最初に角川春樹から長谷川に直接脚本の依頼があったが〔「邦画新作情報 長谷川和彦が角川映画の脚本を」『キネマ旬報』1976年12月下旬号、pp.184-185〕、長谷川が角川に対して無礼な物言いを行って流れたといわれる〔『月刊シナリオ』 日本シナリオ作家協会、1977年1月号、83頁〕。
伊地智啓によると、長谷川のためにキティレコードが映画部門としてキティ・フィルムを設立した〔『甦る相米慎二』(2011年、インスクリプト)pp.183-186〕。1979年にはレナード・シュレイダー(ポール・シュレイダーの兄)との共同脚本で、『太陽を盗んだ男』を監督。孤独な中学物理教師(沢田研二)がアパートで原爆を製造。国家を敵にまわし、ナイター中継の延長やローリング・ストーンズの日本公演を要求する。原発の襲撃や派手なカーチェイスなど、それまでの日本映画にないエネルギッシュな娯楽アクションに仕上げ、“日本のスティーヴン・スピルバーグ”の異名を取る。キネマ旬報ベスト・テン2位、同誌読者投票1位と高評価を受け、「若手監督の旗手」と、大きな支持を受けた。しかしこの映画は興行的には振るわなかった。理由は諸説言われているが、後の東映社長の岡田裕介が当時、「題名が良くなかった」と語っている。こうした事情もあって、本作は長らくカルト映画の位置付けであったが〔『ぴあシネマクラブ 日本映画編 2007年最新版』(2006年、ぴあ)p363〕、その後一般的な評価が高まり、映画誌などで<日本映画史上歴代ベストテン>にも挙げられたり、<20世紀を代表する日本映画>などと評されている〔「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開 1位は東京物語とゴッドファーザー キネ旬がベスト10 - Asahi 、「キネ旬ムック オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」キネマ旬報社、2009年12月、p1-20、Amazon.co.jp: 太陽を盗んだ男 DVD 〕。 
1981年12月9日深夜に起こした飲酒運転による人身事故で〔懲役6ヶ月の実刑判決を受け〔「控訴棄却!長谷川和彦監督に懲役6ヶ月の厳しい実刑判決」『週刊平凡]』1982年11月4日号、pp.36-37〕、1983年3月から同年8月18日まで交通刑務所に5ヶ月間服役〔『映画芸術』NO.401、p.28〕〔「飲酒運転で刑務所生活162日、仮出所した長谷川和彦監督」『週刊明星』1983年9月8日号〕。付き合いの広さから新宿サンルートホテルで出所を祝うパーティが芸能界、麻雀界から多士済々な人々を集めて開催された〔〔「パーティ ゴジとの再会を喜ぶ会」『噂の真相』1983年10月号、p.14〕。このときのことは『月刊プレイボーイ』の1983年12月号と1984年1月号に「市原交通刑務所、163日間体験記」と題して連載した。
1982年大森一樹相米慎二高橋伴明根岸吉太郎池田敏春井筒和幸黒沢清石井聰亙ら若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立。監督代表として取締役に就任する〔vol.127 黒沢清の映画術- 全国映画よもやま話 〕。このうち、長谷川にとって一番目の弟分である相米〔『映画芸術』NO.401、p.29〕と黒沢は長谷川の口利きで業界入りした。相米は長谷川の妻の知り合いという関係で日活に入って、長谷川とともに日活を退社して『青春の殺人者』でチーフ助監督を務めた〔〔効率至上主義の真逆を突き進んだ男、伝説のシネアスト(映画人)相米慎二 〕。黒沢は雑誌『GORO』の座談会をきっかけに『太陽を盗んだ男』の脚本書きに引っ張り込まれたもの〔黒沢清の映画術、45-48、60頁、効率至上主義の真逆を突き進んだ男、伝説のシネアスト(映画人)相米慎二 「あ、春」「セーラー服と機関銃」 - KAWASAKIしんゆり映画祭 〕。石井聰亙は長谷川の誘いでディレカンに参加した〔「撮影現場訪問 逆噴射家族」『キネマ旬報』1984年4月下旬号、pp.138〕。ディレカンは世間の関心を呼び、雑誌媒体の他、メンバー全員で『11PM』などテレビにも出演、これらを見て触発された若い映画人も少なくない〔黒沢清の映画術、69-71頁〕。ディレカンではプロデューサーなどの裏方的仕事にまわり、石井聰亙監督『逆噴射家族』などを製作。相米が『光る女』などで赤字を出し、ディレカンが経営難で給料遅配が続いたときは、長谷川個人で借金をして会社につぎ込んだが〔鈴木義昭「解散説が取沙汰されるディレクターズカンパニーの内情」『噂の真相』1988年5月号、p.59〕、井筒和幸監督『東方見聞録』での死亡事故もあり〔山根貞男『映画はどこへ行くか 日本映画時評'89-'92』(1993年、筑摩書房)p.207〕、長谷川が1本も撮れないうちにディレカンは倒産した〔『映画芸術』NO.401、pp.32-33〕。
その後、テレビ、ビデオ、CMなどを演出するが、『太陽を盗んだ男』以降の映画監督作品はない〔長谷川和彦監督が35年間新作を撮っていない理由とは 〕。デビュー作と第2作がキネマ旬報ベストテン1位と2位という華々しいスタートだったこともあり、長らく次回作が見たい映画監督ナンバーワンと言われ続けてきたが〔〔新文芸坐開館9周年企画に長谷川“ゴジ”和彦監督が降臨! 、鈴木隆『俳優 原田美枝子 映画に生きて生かされて』(2011年、毎日新聞社)58頁〕、2014年夏の時点では新作の話は聞かれない。〔。「俺はやめたと思ってるわけではないんだ。半年後にはクラインクインする気持ちは今も変わらないんだ」と話している〔。
この間にも、『戦国自衛隊』の続編企画〔轟夕起夫「日本一多作な男が日本一寡作な男の半生に迫る! 長谷川和彦vs三池崇史」『轟夕起夫の映画あばれ火祭り』 (2002年、河出書房新社)p.237〕や『ガンヘッド』〔川北紘一『特撮魂 東宝特撮奮戦記』(2010年、洋泉社)p.159〕、『禁煙法時代』〔『映画芸術』2009秋、NO.429(編集プロダクション映芸)p.16〕、菅原文太プロデュースの『吉里吉里人』〔樋口尚文『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』(2004年、筑摩書房)p.249〕、近藤真彦中森明菜の『愛・旅立ち』の原型になった『PSI』〔〔″歩く伝説″山本又一朗プロデューサー 小栗旬初監督作の舞台裏を存分に語る!(後編) 〕など様々な企画があったが、本人が断ったり、途中降板するなどして実現していない。東映俊藤浩滋プロデューサーからは、青函トンネルを題材にした映画の脚本を依頼され、北海道に1ヶ月間取材旅行に行った末に飲み食いで金を全て使い切り、「竜飛岬UFOが降りてくる」という脚本を持って行ったところ、俊藤が激怒して流れた〔俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』(1999年、講談社)36-238頁〕。この企画は製作費20億円という話で、大金を使って失敗したらという不安でビビったともいわれる〔。
なかでも意欲的だったのは連合赤軍を題材とした作品で、シナリオ化して監督するとの構想を語っていて〔白井佳夫『監督の椅子』(1981年、話の特集)p.256〕〔「大友克洋との次の仕事 長谷川和彦インタビュー」『SFイズム』5号(1983年、シャピオ)p.73〕、高橋伴明もずっと手伝う約束をしていたというが〔INTERVIEW:高橋伴明インタビュー - HogaHolic | ホウガホリック 〕、その後頓挫している。2008年に『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った若松孝二監督は「ゴジが撮る撮るといっていっこうに撮らないから俺が撮った」と話している〔〔映画芸術: 映芸マンスリーVOL14 〕。
1980年代以降は『近代麻雀』や『週刊ポスト』などに雀士として登場したり、『スーパーワイドぴいぷる』(TBSラジオ)のレギュラーを受け持つなど、本業以外で名前があがっていた。雀士として井上陽水などを麻雀仲間に引き込み文化人と交流させた〔井上陽水が麻雀を通じて文化人と交流を持った経緯は、まず「話の特集」の矢崎泰久がベトナムに行く時の壮行麻雀大会に五木寛之に連れて行かれ、そこで矢崎、ばばこういち阿佐田哲也に会い、この後、長谷川と知り合い、長谷川に近代麻雀に出ないかと誘われて田村光昭に会い、その繋がりで長門裕之黒鉄ヒロシ畑正憲らと知り合った(井上陽水全発言 井上陽水 えのきどいちろう 1994年福武書店、131頁)。〕。第13・14・15期麻雀名人、第9期近代麻雀王位。
浮名にも事欠かない〔。早くに結婚してすぐに子供もできたが、女優・沖山秀子との仲が取沙汰されたり〔、田淵幸一の離婚話が出た際に田淵夫人の田淵博子の浮気相手に擬せられたこともある〔。1988年からは女優の室井滋との不倫と同棲生活がマスコミを騒がせて〔「半同棲中 室井滋の『結婚して』に長谷川和彦監督が冷や汗!」『アサヒ芸能』1988年11月17日、p.45〕〔「噂の不倫相手はひと回も年上 室井滋 13才年上の映画監督と半同棲」『女性自身』1991年9月10日、pp.66-67〕、1992年に妻と離婚し〔「長谷川和彦監督離婚!噂の室井滋といよいよ再婚か」『FLASH』1992年7月29日号、pp.8-9〕、室井と同居生活を送っている〔「室井滋 映画監督長谷川和彦氏 キトキト同棲中 『いってらっしゃ~い』1億円豪邸前でまるで夫婦のツーショット」『週刊女性』1995年11月28日号、pp.39-41〕。
1993年には、日本映画監督協会新人賞選考委員長として、岩井俊二の『if もしも打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』をテレビドラマ作品としては異例の選出を行う〔樋口尚文『テレビ・トラベラーー昭和・平成テレビドラマ批評大全』(2012年、国書刊行会)9頁〕。吉田大八は、ディレカンに憧れ、イベントで吉田の8ミリ映画を観た長谷川に「助監督やる気ある?」って声をかけられ、3回だけディレカンの仕事をしたと話している〔映画監督になる方法「私はこうして監督になりました」(日本映画監督協会 座談会) 〕。成島出は、ぴあフィルムフェスティバルで、長谷川と大島渚に「映画監督になれ」と言われ映画監督になったという〔成島出監督~映画への熱き思い 映画に対する思い| 東映マイスター 〕。
評価の高い2本の監督作のみで伝説的映画監督と化しているが〔、未だ熱烈な支持者を持っている〔早稲田松竹2007/10/6~2007/10/12 【寺島進おれの1本】第1回『太陽を盗んだ男』ー 長谷川和彦に映画を聞く! - ぴあフィルムフェスティバル(PFF) 河瀬直美「太陽を盗んだ男」を見て長谷川和彦に聞く! - TwitLonger 河瀨直美が世界に伝えたい日本の名画 屈指の問題作「太陽を盗んだ男」長谷川和彦監督が33年を経た今、改めて自作を振り返る! 長谷川和彦さんに取材: newswave on line (personal edition) 大根仁が世界に伝えたい日本の名画 しんゆり発 5時からシネマ Vol.1 - 川崎市アートセンター アルテリオ映像館 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長谷川和彦」の詳細全文を読む




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