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ローリング・ストーンズ : ミニ英和和英辞書
ローリング・ストーンズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ローリング・ストーンズ : ウィキペディア日本語版
ローリング・ストーンズ[ちょうおん]

ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) は、イギリスロックバンド。1962年4月のロンドンで、ブライアン・ジョーンズ(ギター、ハーモニカ)、イアン・スチュワート(ピアノ)、ミック・ジャガー(リードヴォーカル、ハーモニカ)、キース・リチャーズ(ギター、ボーカル)によって結成、その後間もなくベーシストのビル・ワイマンとドラマーのチャーリー・ワッツが参加した。
結成当初のリーダーはジョーンズであったが、後にジャガーとリチャーズがコンビで作曲を行い、グループをリードするようになった。1969年、ジョーンズは体調不良と法律問題のためバンドへの貢献が減少しツアーへの参加もできなくなり、バンドを脱退、その3週間後にプールで溺死した。ジョーンズの後任としてミック・テイラーが加入、1974年に脱退するまで活動を続けた。その後、ロン・ウッドが加入する。ワイマンは、1993年にバンドを脱退、後任としてダリル・ジョーンズがベースを担当するようになるが、正式メンバーとしては加入していない。スチュワートは、1963年に公式メンバーから外されるが、バンドのロードマネージャーを続け、1985年に死去するまでピアニストとしてツアーやレコーディングに参加した。1982年以降は、チャック・リーヴェルがバンドのキーボードを担当している。
ロック草創期の1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で創作を続ける、ロックの代名詞的な存在である。エアロスミスガンズ・アンド・ローゼズオアシスなど、ローリング・ストーンズを崇拝するアーティストは数知れない。
ストーンズは当初ヨーロッパでの人気が高まり、間もなくブリティッシュ・インヴェイジョンの一波として北米での成功を納めた。イギリスでは22作のスタジオアルバム(アメリカでは24作)、11枚のライブアルバム(アメリカでは12作)、多くのコンピレーションをリリースし、現在までの全世界での売り上げは2億枚を超える。『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)はその後アメリカで8連続No1となるアルバム群の最初の1枚であった。最新作の『ア・ビガー・バン』は2005年にリリースされた。1989年にロックの殿堂入りし、2004年には「ローリング・ストーン」誌の100組の偉大なアーティストで4位にランクされた。2008年には「ビルボード」誌の100組のトップアーティストで10位にランクされ、ビルボード ホット100では2番目に成功したアーティストに選出された。
ストーンズの出現は、最初のアーバンブルースの世界的な人気の高まりの象徴の一つであった。バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの"Rollin' Stone"にちなんで、当時リーダーであったジョーンズが命名した。ストーンズの活動継続と関連に関して評論家のロバート・パーマーは、彼らは「より短命なポップ・ファッションが現れたり消えたりしている」間、「リズム・アンド・ブルースとソウル・ミュージックの中で伝統的な真実に根ざしている」ことによると語っている。初期のレパートリーではリズム・アンド・ブルースとブルースのカヴァーが多くを占めていたが、その中にはいつもロックンロールが含まれていた。
代表曲として「サティスファクション」「一人ぼっちの世界」「黒くぬれ!」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」など、多数のヒット曲がある。
== 歴史 ==

=== 初期 ===
1950年代初め、キース・リチャーズミック・ジャガーは幼なじみであり、双方の一家が引っ越すまでダートフォードのウェントワース・プライマリースクールでの級友であった。1960年、シドカップ・アートカレッジの学生であったリチャーズとロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生であったミックがダートフォード駅で再会する。ミックが持っていたチャック・ベリーとマディ・ウォーターズのレコードで、お互いの興味が明らかになって友情が復活し、ディック・テイラー(後にのメンバーとなる)を加えてのバンド「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」結成につながる。3人はアーリング・ジャズクラブアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のステージにゲスト出演していたブライアン・ジョーンズスライドギターを目の当たりにして衝撃を受ける。ブルース・インコーポレイテッドには、後にストーンズのメンバーとなるイアン・スチュワートチャーリー・ワッツも参加していた。
イアンは練習場所を見つけ、ブライアンと共に加入し、バンドはシカゴ・ブルースを演奏するようになった。名前も決定していないバンドはミック、ブライアン、イアンに加え、ミックが強要して加えたキースと共に最初のリハーサルを行った。リハーサルには、ギタリストのジェフ・ブラッドフォードとヴォーカリストのブライアン・ナイトも参加したが、2人はミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの曲を演奏することに異論を述べ、バンドへの加入を拒否した。1962年6月のラインアップはミック、ブライアン、キース、イアン、ディック、及びドラマーのトニー・チャップマンであった。キース曰く、ブライアンが「ジャズ・ニュース」紙との電話の間にバンド名を決定したという。バンドの名前を尋ねられたブライアンは、床にあったマディ・ウォーターズのレコードを見て、その中の1曲「ローリン・ストーン」をバンド名にした〔Jagger, Richards, Watts, Wood 2003. p. 42〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ローリング・ストーンズ」の詳細全文を読む




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