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俊藤浩滋 : ミニ英和和英辞書
俊藤浩滋[しゅんどう ひろし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じゅん]
 【名詞】 1. excellence 2. genius
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 

俊藤浩滋 : ウィキペディア日本語版
俊藤浩滋[しゅんどう ひろし]

俊藤 浩滋(しゅんどう こうじ、1916年11月27日 - 2001年10月13日)は、日本映画テレビドラマプロデューサー。本名は俊藤 博(しゅんどう ひろし)。神戸市長田区出身。

娘は富司純子。孫は寺島しのぶ五代目 尾上菊之助上羽秀は長年の同棲相手であり、後妻にあたる。
== 来歴 ==
夜間の神戸市立第二神港商業学校卒業。山口組最高幹部であった菅谷政雄とは同郷の幼馴染で、親友であった。太平洋戦争時には徴兵や軍需工場への動員で過ごすが、御影町の五島組(ごしまくみ)の賭場に通うなかで、大野福次郎(1900~1953)と出会った。大野は旧姓を五島といい大野家に養子となったが、兄弟は男だけの九人兄弟で長男の五島清吉を含め四人がヤクザとなった家系である。御影町の旧家の出身で全国の博徒や右翼と交際した旦那やくざの嘉納健治の子分となり、山形の下に「丁」のヤマチョウの代紋を継承した五島組を興し沿岸荷役のほとんどを独占。戦時中は嘉納と親交のあった岩田愛之助の紹介で上海に進出。戦後は山口組本多会と並ぶ神戸の御三家としてあらゆる資金源を開拓した〔飯干晃一『オトリ捜査 潜入編』角川文庫 P.184~187〕。俊藤は興行を手伝っていたとされる。このため東映内部においても「あのひとは玄人上がり」という声が残っている。
結婚していたが別居し、1948年、当時松竹の経営人の一人である白井信夫に身受けされていた上羽秀(後にバー「おそめ」のママとなり、小説・映画『夜の蝶』のモデル)と出会い、同居するようになる〔「石井妙子おそめ」 松岡正剛〕。大佛次郎川端康成小津安二郎白洲次郎川口松太郎などが贔屓して集まる「おそめ」にも顔を出すことで、この夜の社会からマキノ雅弘の映画撮影の手伝いや、巨人監督を辞め、水原茂東映フライヤーズ監督招聘などで、東映社長の大川博岡田茂と縁を深めていく〔#任侠38-47頁〕〔#やくざなり14-15頁〕〔高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る。 - 現代ビジネス - isMedia page=2 〕。1960年には、京都御池に320坪の「おそめ会館」を開業し、ダンスホールナイトクラブを経営した〔楠木建President Online 〕。
同年、実質東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂に〔#映画人122頁〕〔NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】 〕「俺をプロデューサーにしてくれないか」と頼み〔#波瀾148-150頁〕〔#オール読物218頁〕〔日下部五朗 『デイリースポーツ連載「日下部五朗 私の名画座招待席」』 デイリースポーツ、2013年8月18日〕岡田からの依頼で鶴田浩二東宝から引き抜きに成功したことで〔〔〔#任侠93頁〕東映で鶴田のマネージャー兼プロデューサー見習いを始めることとなる〔。1962年、まだ名前はクレジットされていないが、『アイ・ジョージ物語 太陽の子』を初プロデュース。1964年の『大笑い殿さま道中』より企画者の一人としてクレジットされるようになった。同年、東映京都撮影所所長に復帰した岡田が任侠映画路線に本腰を入れるための先兵として本格的に任侠映画のプロデューサーとなる〔〔東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI 〕。それまでプロデュースした映画で分かるように、俊藤には任侠映画という発想は全くなかった。岡田が時代劇から容易に転用できる任侠映画の制作を着想し、岡田「あんたの体験を写真にしてもらいたい」、俊藤「馬鹿言え。わしはヤクザやないで」、岡田「不良性感度の強いもの、濃いいもんを作って欲しいんや。テレビの中に絶対出てこんもんや。博打場、鉄火場、いつもドスを懐に忍ばせているような世界や」、俊藤「やれいうんなら、ほんなもんすぐでけるで。責任は取らへんど」、岡田「責任はわしが取る。あんた作るだけや」というようなやりとりがなされた。東映任侠映画路線の生みの親は岡田であり俊藤ではない〔歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4頁 〕。俊藤も岡田にプロデューサーとしての才能を見出された人物である。鶴田浩二主演の『博徒』や高倉健主演『日本侠客伝』が大ヒットしたことで頭角を現す〔#困った62頁〕。1965年以降も『昭和残侠伝シリーズ』、『極道シリーズ』、『緋牡丹博徒シリーズ』などを次々ヒットさせ、岡田と俊藤は天下無敵のコンビ(俊藤曰く)を組み、任侠映画で一時代を築いた〔#任侠70、224-227頁〕〔#高倉任侠6-13頁〕〔本誌しか書けない秘話! 高倉健vs菅原文太 実録ヤクザ伝(1) 〕。任侠映画は「実録映画」が登場するまで約10年隆盛を迎える〔〔〔#任侠168-169頁〕。俊藤は「仁侠映画が隆盛のころ、岡田所長と新しい企画を相談するときは、いつも15分から20分ほどで決まった。二人で話すうち、『こんなのはどうや』『おもろいな。それいこうか』といった調子で、会議といえるほどのものではなく、彼は私を信頼してくれた。企画を東京本社での会議に出すのは岡田所長の役割で、今度はこんなシャシンを撮る、そのつぎはこれ、と、スケジュールを立てていく。反対する者なんかいない。そうやってつくる映画がどんどん当たった。岡田所長はワンマンな私を随分バックアップしてくれた。その意味で、岡田茂と私は持ちつ持たれつな仲でやってきた。二人が組まなかったら、あれだけの任侠映画の一時代は生み出せなかったと思う」などと述べている〔。
俊藤がプロデュースしたヤクザ映画は、義理・人情・男の怒りといったモチーフが主体であり、脚本家たちも俊藤の意向に沿って執筆してきたものの、笠原和夫高田宏治らは人間の持つ弱さ・卑怯さといったドラマツルギーを無視し、ヤクザを美化しすぎた俊藤スタイルに不満を募らせていた〔#仁義沈没162-167頁〕。しかし興行として成功していたため、東映はこのようなヤクザ映画を中心に1972年まで量産し続けた。岡田は東映のゼネラルマネージャー的立場にあって全体を統括しなければならず〔〔〔#困った79頁〕、この頃、映画製作よりも困難を極めた京撮のリストラという大きなミッションがあった〔〔「日本映画界のドン」岡田茂氏逝く ― スポニチ Sponichi Annex 芸能 〕〔#あかん216-223頁〕〔『私と東映』× 神先 頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回) 〕〔#やくざ21-22頁〕。このため俳優にしっかり付くことはできなくなり、俳優の売り出しに実績を挙げ始めた俊藤が俳優を抱えだした〔#困った68-69頁〕。勿論、面倒見がよかったということもあるが、裏社会に顔の利く俊藤は、スターたちがトラブルに巻き込まれた時に恩を売る、或いはギャラ交渉や配役の変更などスターに代わって会社と交渉してやることで恩義を売り彼らを傘下に置いた〔。岡田が任侠路線と平行して、エログロ映画喜劇などにも路線を拡げ、特に1967年の『大奥(秘)物語』あたりから、東映ポルノが本格化し、これらを俊藤の手掛ける任侠映画と二本立てで組合せることで両方が際立つ効果をもたらし、高い興行成績を挙げた〔#任侠225-231頁〕。岡田がプロデュースした1968年の『徳川女系図』ではピンク映画の女優が全裸で東映京都撮影所を走り回って恐慌をきたし、若山富三郎や鶴田浩二らが強く反撥した〔#風雲144-145頁〕。しかし『徳川女系図』は高倉健主演の『網走番外地 吹雪の斗争』を上回る大ヒットとなった〔。1972年の藤純子(富司純子)引退を境に、任侠映画は成績に翳りが見えて1973年『仁義なき戦い』が大ヒットすると岡田は「任侠路線」から「実録路線」に転換しようとした〔。このため任侠映画のスターを抱えていた俊藤と後に確執が生まれた〔#任侠70、227-231頁〕〔#困った95頁〕。有名な「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」は、岡田が直接俊藤に言い放ったセリフであった〔。ただ高倉は任侠映画に飽きていたといわれる〔。俊藤は東映に居場所を失いつつあった〔。俊藤は東映と縁を切り抱えてたスターと会社に不満を持つスタッフを引き連れてオスカープロダクションを作ったがその情報をつかんだ岡田は高岩淡翁長孝雄に命じてこの阻止にかかり、スター一人一人を説得してまわり、結果、俊藤の下には誰も集まらなかった〔#あかん324-325頁〕。またスポーツニッポンに岡田との確執の記事がデカデカと載った〔。岡田と俊藤の仲違いを憂いた高岩が岡田を説得し〔結局、五島昇を仲介に立て和解をし、俊藤は参与のゼネラルマネージャーに就任した〔〔。岡田と俊藤の手打ち作品として企画されたのが『山口組三代目』となる〔〔。1974年12月、前売券不正事件で参与の肩書を外され、東映本社から京都撮影所に戻る〔サンデー毎日、1975年5月25日38面〕。
これ以降、俊藤は東映の外でも製作するようになり、アメリカ映画の『ザ・ヤクザ』 (1974年、Warner Bros.)、任侠映画でなく、かつ香港との合作作品である『ゴルゴ13 九竜の首』 (1977年、東映 / 嘉倫電影)、他社製作の『ダイナマイトどんどん』 (1978年、大映) などを手がける転機にもなった。1980年代に入ると個人事務所・藤映像コーポレーション名義で、時代劇悪党狩り』 (1980年 - 1981年、東京12チャンネル / 松竹) と刑事ドラマ警視庁殺人課』 (1981年、テレビ朝日 / 東映) の製作にも携わるなどテレビドラマへの進出を図ったが、これ以降はかつてほどの本数ではないが、再びヤクザ映画中心のプロデュースとなった。
2001年10月13日、肝不全のため死去。。『修羅の群れ』 (2002年) が遺作となったが、最後までヤクザ映画の製作に意欲を燃やしていた。マキノ雅弘は「俊藤の牛耳り方があまり感心できなかった。プロデューサーの範囲を越えて、企業家みたいな気になっちゃったんだな。金を出すのは会社なのに、人のフンドシで小遣いやって『兄弟の盃しよう』とか『お前、俺の若い者になれ』というやり方だからね。俊藤より前にいた奴がみんな子分みたいになっちゃって、他のプロデューサーもみんなあいつに頭が上がらなくなったんだ。しまいには『今度はマキノを使おうか』てなもんでしたな。プロデューサーが監督より偉いなんてことないのに、あいつはそう思い込んじゃった。やくざ映画ブームをつくったといっても、殺されたら仇討ちに行くという同じパターンのものばかりだ。『忠臣蔵』の小物みたいなものしか作ってなくて、題名が違っていただけだから。やくざの世界を勧善懲悪に置き換えたという点が新しかっただけでしょ。ワシらでさえ撮って行き詰ったんだから。マンネリになったらおしまいだということを知らなかったんじゃないかな。同じ方向を向いてた岡田茂とも、やくざ映画が下火のころには意見が合わなくなって、岡田が社長になるとき俊藤は対立する立場だった。岡田にしても東映でポルノを始めた元祖だからね。ハッキリいえば二人とも、映画人としてはゲテモノなんです」と述べている。
俊藤の葬儀には葬儀委員長を務めた岡田茂東映会長(当時)〔以外の東映の関係者はほとんど参列せず。富司ら親族以外の俳優では、弔辞を読んだ菅原文太長門裕之里見浩太朗品川隆二の4人だけだったという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「俊藤浩滋」の詳細全文を読む




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