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ピンク映画 : ミニ英和和英辞書
ピンク映画[ぴんくえいが]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

ピンク映画 : ウィキペディア日本語版
ピンク映画[ぴんくえいが]

ピンク映画(ピンクえいが)は、日本のポルノ映画のうち、大手以外の映画製作会社によって製作・配給された作品のこと。現在の製作・配給会社としては新東宝映画、オーピー映画(旧大蔵映画Okura Pictureより)、新日本映像(エクセス・フィルム)がある。この他に製作のみを行っている国映があり、配給は新東宝映画に委託されていたが、近年の作品は他社が配給している。
ピンク映画の傍流として「ゲイ向けピンク映画」と呼ばれる同性愛者向けのポルノ映画があるが、こちらは同項を参照のこと。
==概要==
"ポルノ映画"という名前を日本で初めて使って映画を作ったのは東映である。東映任侠映画の仕掛け人で〔歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん - 日刊スポーツ NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4-7頁 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回) 〕当時の東映取締役・岡田茂(のち、同社社長)が、1960年代後半から『』(1967年)や『徳川女系図』(1968年)といったエロチシズム路線の映画を仕掛けていきこのうち、やはり岡田の企画で始めた"温泉芸者シリーズ"第4作『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督、1971年7月3日公開)に於いて〔温泉みみず芸者|一般社団法人日本映画製作者連盟 東映ビデオオンラインショップ / 温泉みみず芸者 笑うポルノ、抜けるコメディ - シネマヴェーラ渋谷 〕プロデューサーの天尾完次が海外の雑誌のグラビアから"ポルノグラフィ"という言葉を見つけて同作で主演デビューする当時16歳の池玲子を売り出すため、あれこれ思案し「日本初のポルノ女優」というキャッチコピーを付けた〔〔東映ピンキー&バイオレンス映画再ブーム! 鈴木則文監督独占インタビュー ポルノ女優第一号を創った男たち/春日太一 - 筑摩書房 PR誌 セクシー女優のあの興奮をもう一度! | アサ芸プラス 日刊ゲンダイ|プレイバック芸能スキャンダル史 池玲子 2度の逮捕で一時活動休止した元祖ポルノ女優 〕。今日SEX映像の代名詞として日本で定着する"ポルノ"という言葉は、このとき東映が作った造語である。岡田茂がエロ映画に参入した動機は、当時ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めて、ソロバンをはじいてみると松竹の年間配入よりも総体で上回ることが分かったからといわれている。日活も東映のアイデアを拝借して"日活ロマンポルノ"という言葉を作り〔、東映の『温泉みみず芸者』公開から4か月後の1971年11月20日に『団地妻 昼下りの情事』『色暦大奥秘話』を"日活ロマンポルノ"第一弾として封切り「ポルノ映画」という名称が一気に普及した〔。網走番外地シリーズでNO.1ヒットを出していた石井輝男ら一般映画でも一流の監督達が演出し、一般映画でも主演スターである梅宮辰夫丹波哲郎吉田輝雄伊吹吾郎らが登場する。そこからポルノの女王と言われる池玲子杉本美樹らがスターとなっていき、フランスポルノの女王サンドラ・ジュリアンクリスチーナ・リンドバーグらがゲスト出演した。豪華な時代劇のセットや衣装を使い、後の日活のポルノとは桁違いの大金を投じていた。当時の日本映画は2本立てが基本であるため、ヤクザ映画と併映されていた。東映ポルノは、1960年代後半から1970年代終わりにかけて作られた。
日活は60年代も後半に入ると石原裕次郎小林旭の肥満や作品のマンネリのため客足が遠のき、後発のスターも観客動員力がなく経営破綻に陥った。成人映画なら一般映画より一桁少ない制作費でも客入りが見込めると1971年にポルノ専門の会社に転進。日活ロマンポルノを名乗った。ポルノを嫌った日活の既存のスターはテレビドラマや他社の映画の仕事を求めて辞めていった。一方、既に名を成していた映画監督らについては、この機に日活を離れた者が多いが、それ以外のスタッフについては、日活に残ってそのままロマンポルノの制作に従事した者も少なくない。
人材・作風などからピンク映画をスケールアップしたものが多い。ロマンポルノは予算が零細企業が作るピンク映画に比べれば潤沢であり、日活社有のスタジオが利用でき、俳優・監督なども事実上の日活専属が多かったことからピンク映画とは様々な面でカラーが異なっていた。ピンク映画業界のスターだった女優や監督など優秀な人材が日活にヘッドハンティングされることもあり、決して対等・良好な関係とは言えなかった。ただし、1980年代後半以降、諸般の事情からロマンポルノにピンク映画出身の監督が次々に進出するようになり、垣根は取り払われていった。
日本では「ピンク」という色名が用いられているが、アメリカでの類似映画は、フィルムを青く着色していたことから「ブルーフィルム」と呼ばれる。日本で「ブルーフィルム」とは、温泉街などでの上映会に提供されていた8ミリまたは16ミリフィルムによる短編ピンク映画(その多数は無修正映画)を指すことが多い。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピンク映画」の詳細全文を読む




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