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大蔵映画 : ミニ英和和英辞書
大蔵映画[おおくらえいが-]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大蔵 : [おおくら]
 【名詞】 1. Ministry of Finance 
: [そう, くら, ぞう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

大蔵映画 : ウィキペディア日本語版
大蔵映画[おおくらえいが-]

大蔵映画株式会社(おおくらえいが-)は、日本の映画会社である。ピンク映画及びゲイ・ポルノの製作・配給・興行、ボウリング場等のレジャー施設の経営を行う。
== 略歴・概要==
1960年(昭和35年)12月1日、新東宝代表取締役から退陣した大蔵貢が〔田中, p.332.〕、新東宝へ製作物を供給していた富士映画を母体に、1962年(昭和37年)1月に設立した〔田中、p.451.〕。代表取締役社長には大蔵貢、副社長には大蔵の実弟で歌手の近江俊郎(大蔵敏彦)が就任した。富士映画はもともと、1955年(昭和30年)12月に大蔵が36館の映画館を経営する手腕を買われて、新東宝の経営に参加する以前、1947年(昭和22年)6月からレンタルスタジオとして経営していた富士映画スタジオが前身である〔田中、p.206-207.〕。同年早々に、かつて『チャップリンのニューヨークの王様』等を輸入配給した洋画配給会社大和フィルムを吸収合併、同社代表の徳江清太郎を専務取締役に迎え〔、同年、外国映画の配給を開始する〔キネマ旬報映画データベース 、2010年7月30日閲覧。〕。
同年、日本における2作目の70ミリ映画となった超大作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』を、設立後の第1号作品として小森白を監督、南原宏治を主演に製作、同年4月7日に公開した〔太平洋戦争と姫ゆり部隊 日本映画データベース、2010年7月31日閲覧。〕が、配給網が弱く興行的には成功しなかった〔田中、p.231-433.〕。以後しばらくは、大和フィルムの最終公開作品『ファイブ・ガン あらくれ5人拳銃』の監督であったロジャー・コーマンファイブ・ガン あらくれ5人拳銃 キネマ旬報映画データベース、2010年7月31日閲覧。〕の製作・監督作品等、外国映画の小品の配給と、時折自社製作の一般向映画を発表する程度に、活動を留める。
同年、日本製ピンク映画の第1号作品とされる協立映画製作、小林悟監督の『肉体の市場』を配給し大ヒットさせる〔歴史雑学探偵団、p.88.〕。さらに数本の成人向作品を製作・配給したところ、好成績を収めるものも出てきたので、自社で製作・配給する作品の主力を、成人向映画に転換する。同時に、当時の関東地区での自社直営館や、外部のピンク映画製作に関わる群小プロダクションなどを中心に、成人向映画の配給網「OPチェーン」を組織する。現在まで続く、ピンク映画の専門会社としての体制を固めていった。その後、自社製作から徐々に撤退し、代わりに外注作品を配給する形態に変えていく。それに伴い、大蔵映画撮影所を規模縮小し、レジャー施設へ転換し始める。
1966年(昭和41年)、大蔵映画撮影所を閉鎖し、跡地を総合アミューズメント施設「オークラランド」として完全に再開発、現在も、大蔵映画直営施設として営業中である。同年ころまでで外国映画の配給業務から撤退する〔。
1978年(昭和53年)9月15日、大蔵貢が78歳で死去、子息の大蔵满彦が経営を継承する。1992年(平成4年)7月5日、副社長の大蔵敏彦(近江俊郎)が満73歳で死去した。
1984年(昭和59年)末から、大阪のENKプロモーション(東梅田日活株式会社)と提携し、ゲイポルノ映画に進出。製作配給及び専門上映館の運営を開始する。
2000年(平成12年)8月28日、東映シネマコンプレックス運営等の新会社ティ・ジョイに、シネマサンシャインの佐々木興業、王子シネマの大旺映画らとともに出資して資本参加する〔会社案内 ティ・ジョイ、2010年7月31日閲覧。〕。
2001年(平成13年)、製作・配給部門を系列子会社・オーピー映画に分離し、興行部門のみを行う体制になった。
2006年(平成18年)5月28日、福岡オークラ劇場Ⅰ・福岡オークラ劇場Ⅱ、2008年(平成20年)2月17日、大宮オークラ劇場・大宮オークラ小劇場をそれぞれ閉館する。2009年(平成21年)3月1日には、上野スタームービー、世界傑作劇場、日本名画劇場を新装開業のため休館、2010年(平成22年)8月1日には上野オークラ劇場、上野地下特選劇場を閉館、同4日、上野スタームービー等の跡地に上野オークラ劇場、上野オークラ劇場2、上野特選劇場として移転オープンする。大蔵映画設立以前の1952年(昭和27年)以来、58年の歴史を持つ上野オークラ劇場のクロージングイヴェントには、小川欽也監督の大蔵映画製作作品『怪談バラバラ幽霊』(1968年)、『新怪談色欲外道 お岩の怨霊四谷怪談』(1976年)を上映した〔7/31(土) クロージングイベント! 上野オークラ劇場、2010年7月16日付、2010年7月31日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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