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西園寺公望 : ミニ英和和英辞書
西園寺公望[さいおんじ きんもち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [その]
  1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

西園寺公望 : ウィキペディア日本語版
西園寺公望[さいおんじ きんもち]

西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月22日1849年12月6日)〔グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している〕 - 昭和15年(1940年11月24日)は、日本公家政治家教育者位階勲等爵位従一位大勲位公爵雅号は陶庵、不読、竹軒〔京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32) 〕。
戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。
その後、伊藤の立憲政友会総裁に就任した。明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
1849年12月6日嘉永2年10月22日)、清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純と妻の末弘斐子の次男として誕生した。幼名は美丸(よしまる、美麿とも)。2歳の時に、同族で清華家の西園寺師季の養子となった。その年の7月に師季が死亡したため、西園寺家家督を相続した。このため実質的には実父の公純の強い影響下で成長することとなった。公純は保守的ながらも頑固な性格で、国木田独歩はその頑固さが公望にも受け継がれたと評している。孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳の時からは御所に出仕し、祐宮(後の明治天皇)の近習となった。また近習の同僚であった岩倉具視ともこの時期に親しくなっている。
西園寺は学問を伊藤猶斎秋田秋雪に学ぶ一方で、京都第一の剣客とうたわれた戸田栄之進とその甥伏見集二から剣術を学ぶなどしている。また福沢諭吉の『西洋事情』を読むなどして世界の情勢にも関心を持つようになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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