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民法典論争 : ミニ英和和英辞書
民法典論争[みんぽうてんろんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
民法 : [みんぽう]
 【名詞】 1. civil law 2. civil code 
: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 
法典 : [ほうてん]
 【名詞】 1. code of law 2. body of law
: [のり]
 【名詞】 1. rule 2. law
: [ろん]
 【名詞】 1. (1) argument 2. discussion 3. dispute 4. controversy 5. discourse 6. debate 7. (2) theory 8. doctrine 9. (3) essay 10. treatise 1 1. comment
論争 : [ろんそう]
  1. (n,vs) controversy 2. dispute 

民法典論争 : ウィキペディア日本語版
民法典論争[みんぽうてんろんそう]
民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、明治22年(1889年)から明治25年(1892年)の日本において、旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期するか断行するかを巡り展開された論争。
なお、この論争と同時期に刑法典商法典を巡る論争(刑法典論争商法典論争)も行われて、旧刑法の全面改正と旧商法の施行延期が行われた。このため、3つの法典を巡る論争をまとめて「法典論争(ほうてんろんそう)」と呼称する事がある。ドイツ法典論争とは異なる。
== 旧民法の編纂 ==
近代以前の日本においても、中国式の法典である律令法大宝律令8世紀初頭に成立して、民法の規定もその要部を占めていた〔穂積重遠(1948)7頁、富井(1922)62頁、谷口・石田(2002)9頁〕。しかし、12世紀末に武家時代になってから、律令法はその効力を失い〔穂積重遠(1948)7頁〕、これに替わって鎌倉幕府室町幕府による式目や、江戸幕府の徳川百箇条などが民事裁判に活用されたが、必ずしも全国的に普及していなかったり、その規定の大部分は刑事法的な禁令であったから、細目については地方ごとの慣習にゆだねる部分が多く、日本全国に広く通用する裁判規範としての民法典が存在するとは言い難い状況であった〔穂積重遠(1948)7頁、富井(1922)63頁、谷口・石田(2002)9頁〕。また、封建制の下では一般庶民は平等な権利主体とはされておらず〔富井(1922)63頁〕、民事上の問題が生じた場合には当事者間の話し合い(相対)による解決が付かない場合にのみ「お上からの恩恵」として仲裁に乗り出すという名目で民事裁判が行われたものであり、民衆を法的に救済する制度ではなかった〔衣笠保喜「公事」(『社会科学大事典 5』(鹿島研究所出版会、1968年) ISBN 978-4-306-09156-6) P190〕。
だが、明治維新が為ると、明治元年(1868年)の五箇条の御誓文において、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」ということが新政府の基本方針の1つとなったから、早くも明治3年(1870年)には太政官制度取調局を設置し、長官に就任した江藤新平を中心として、当時の世界最先端であったフランス法を範として、法律制度の整備が推し進められた〔松波ほか(1896)12頁、富井(1922)64頁〕。そこでは、人民の権利を確保して不公平をなくすことと、地方ごとの法制度を全国的に統一することで、種々の不便を無くし社会基盤を整備することとが意識された〔松波ほか(1896)11頁、富井(1922)63頁〕。当時、一国の統一的な民法典が無いという状況自体はイギリス・ドイツ・スイスロシアなどにおいても同様であったが〔穂積重遠(1948)4-7頁〕、日本が特に成功を急いだのは、諸外国との不平等条約改正して一日も早く治外法権を撤去したいというのは、当時一般社会の熱望する所であったが、改正を行うには民法・刑法をはじめとする近代的な諸法典を制定するという事が、条件の1つとなっていたからである〔松波ほか(1896)11頁、富井(1922)64頁、穂積陳重・法窓夜話97話〕。
江藤が征韓論に敗れて下野した後も司法卿大木喬任の下、司法省に民法編纂局を設置して箕作麟祥等に命じて民法を編纂せしめたが(明治10年(1877年)及び11年(1878年)起草、「民法草案」という)〔谷口・石田(2002)10頁〕、これは殆んどフランス民法の引き写しのようなものであったから〔穂積陳重・法窓夜話97話〕、大木はこの草案に飽き足らず、明治12年(1879年)に至り、当時司法省の顧問であったフランス人法学者のボアソナードに命じて民法草案を起稿せしめ(ボアソナード原案〔谷口・石田(2002)11頁〕)、日本各地の慣習調査と、日本人の委員による討議を経て、明治19年(1886年)までには財産編と財産取得編とが脱稿され、Project de code civil pour l'empire du Japonと題する民法原案が成立した。しかし翌明治20年(1887年)には条約改正に対して反対運動が起き、民法典編纂事業がいったん頓挫する〔富井(1922)65頁〕。
そこで、大木の後を継いだ司法大臣の山田顕義は、民法典編纂事業を外務省法律取調委員会の手に移して自ら委員長に就任し、改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるということから、熊野敏三磯部四郎などの日本人委員に起草させた〔富井(1922)66頁、岩田新(1943)10頁〕。明治21年(1888年)にはボアソナード担当部分の草案が成立し、明治22年(1889年)には元老院の議決を経て翌明治23年(1890年)4月に法律28号として公布、残部についても同年10月に法律第98号を以って公布され、双方とも明治26年(1893年)1月1日から実施すべきものと定められた〔富井(1922)66頁、谷口・石田(2002)11頁〕。この法律28号、第98号がいわゆる旧民法である〔富井(1922)67頁〕。
もっとも、この民法典編纂事業の最中にも多数の単行法令が出されており、また単行成文法が無い場合においても慣習により、慣習も無い場合は条理に従って裁判すべきものとされていた(裁判事務心得3条)。これら単行法や条理の解釈においては、フランス法及び自然法論の影響が特に強かったと考えられている〔谷口・石田(2002)13-14頁〕。
なお、商法の編纂は、明治14年(1881年)に太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロエスレルに草案の起草を命じた。該草案は2年を経て脱稿し、その後取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を経て、明治23年3月27日に成立、翌24年(1891年)1月1日より施行されることとなっていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「民法典論争」の詳細全文を読む




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