翻訳と辞書
Words near each other
・ 東野治之
・ 東野泰子
・ 東野町
・ 東野稔
・ 東野章子
・ 東野純直
・ 東野美紀
・ 東野翠れん
・ 東野芳明
・ 東野英心
東野英治郎
・ 東野貴行
・ 東野辺薫
・ 東野邊薫
・ 東野郡
・ 東野里加
・ 東野鉄道
・ 東野鉄道3形蒸気機関車
・ 東野鉄道A形蒸気機関車
・ 東野鉄道C25形蒸気機関車


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

東野英治郎 : ミニ英和和英辞書
東野英治郎[とうの えいじろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
: [の]
 【名詞】 1. field 

東野英治郎 : ウィキペディア日本語版
東野英治郎[とうの えいじろう]

東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年9月17日 - 1994年9月8日)は日本俳優随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二
新築地劇団を経て小沢栄太郎千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心
== 来歴 ==
1907年(明治40年)9月17日群馬県富岡市七日市の造り酒屋の家に生まれる。父は江州の山村から単身で関東に移り、辛苦して酒造家となった人で、根っからの日野商人(近江商人)だった〔中央公論社刊『歴史と人物』p.316〕。実家の本宅は滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平(現蒲生郡日野町大字鳥居平)にある。旧制富岡中学卒業後、明治大学商学部に入学。同級生には後に阪神タイガースで活躍する松木謙治郎がいる〔『阪神タイガース 昭和のあゆみ』1991年、p.7〕。在学中に学内の非合法サークル・社会科学研究会に入り、左翼思想に目覚める〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.383〕〔大笹吉雄著『日本現代演劇史・昭和戦中篇 第1巻』、白水社、1993年、p.85〕。
1931年(昭和6年)4月、劇団築地小劇場のプロレタリア演劇研究所に第1期生として入り〔〔東野英治郎 、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、コトバンク、2015年12月4日閲覧〕、東京左翼劇場公演の『恐山トンネル』(三好十郎作)で初舞台を踏む。研究所卒業後の同年9月、新築地劇団に入団、本庄 克二の芸名で端役として舞台に立つ一方、プロレタリア運動に従事する〔。新築地の公演の殆どに出演し、『ハムレット』の亡霊、『坂本龍馬』の人斬り以蔵、『人生劇場』の呑込み半助などを演じて徐々に頭角を現す。1937年(昭和12年)の『渡辺崋山』『嗤う手紙』で好評を得、以来『土』の平造、『綴方教室』の由五郎、『ハムレット』の墓掘りの役で俳優としての地位を固めていった。1939年(昭和14年)には『土』の勘次、『海援隊』の馬之助など大役を演じ、その傍ら劇団の書記長、企画部長〔東野英治郎 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2014年12月4日閲覧〕、演技部長〔『近代歌舞伎年表京都篇』 、国立劇場(編)、八木書店、p.415。同書によると、1939年に演技部長に選任され、他の役員は幹事長に薄田研二、書記長に千田是也、経営宣伝部長に山川幸世、演出部長に岡倉士朗、文芸部長に和田勝一となっている〕 を務め、劇団の中心俳優となった〔。舞台活動の一方、1938年(昭和13年)に衣笠貞之助監督の『黒田誠忠録』で映画に初出演し、松竹下加茂撮影所の準専属として数本に出演したほか、日活の『海援隊』や東宝映画の『彦六なぐらる』等にも出演した〔。
1940年(昭和15年)8月19日、新劇弾圧で八田元夫池田正二らとともに治安維持法違反で検挙され、8月23日に劇団は強制解散される。翌1941年(昭和16年)にいったん釈放され、南旺映画製作の映画『流旅の人々』に出演。同年5月に不起訴で正式に釈放されるが、内務省の命令で本名で活動することとなり、松竹太秦撮影所で内田吐夢監督の『鳥居強右衛門』など数本に出演後、大船撮影所に移籍する〔。
1944年(昭和19年)、小沢栄太郎千田是也青山杉作東山千栄子らと共に俳優座を結成。同時に日本移動演劇連盟に加入し、芙蓉隊を組織して地方を巡演する。戦後、俳優座の中心として『検察官』『中橋公館』『赤い陣羽織』『夜の来訪者』などで主要な役を演じた。俳優座劇場設立にも尽力し、後に同劇場取締役を務めた。
戦後も映画では脇役として数多くの作品に出演する。黒澤明監督作品には『七人の侍』『用心棒』など計7本、小津安二郎監督作品には『東京物語』『秋刀魚の味』など計4本、木下惠介監督作品には『結婚』『楢山節考』など計9本に出演。その他浦山桐郎監督『キューポラのある街』、岡本喜八監督『江分利満氏の優雅な生活』、山本薩夫監督『白い巨塔』など一流監督の名作や、社長シリーズクレージー映画といった人気シリーズなどに出演し、日本映画界を代表するバイプレーヤーとなった。演技幅も広く、善悪様々な役をこなした。
テレビドラマでは1969年(昭和44年)8月4日からTBS系列の時代劇水戸黄門』で主役の徳川光圀を、第1部から第13部まで足掛け14年、全381回にわたって演じ、彼の代表作となった。じゃがいも黄門の名で親しまれ、お茶の間で絶大な人気を博した。しかし、1982年(昭和57年)7月8日に高齢による気力体力の減退等を理由に黄門役の降板を表明し、1983年(昭和58年)4月11日の第13部の最終話が最後の放送となった。
1990年(平成2年)、日本新劇俳優協会の会長に就任。その後も散発的に俳優活動を行っていたが、1994年(平成6年)9月8日東京都国分寺市の自宅で心不全のため死去。。遺作は没後の1994年10月5日テレビ東京で放送され、自らゼネラルプロデュースを務めた『荒木又右衛門 男たちの修羅』。2000年(平成12年)11月14日には長男の英心が高血圧性脳出血で58歳の若さで急逝した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東野英治郎」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.