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衣笠貞之助 : ミニ英和和英辞書
衣笠貞之助[きぬがさ ていのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ころも]
 【名詞】 1. clothes 
: [かさ]
 【名詞】 1. (bamboo) hat 2. shade 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

衣笠貞之助 : ウィキペディア日本語版
衣笠貞之助[きぬがさ ていのすけ]

衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本俳優映画監督脚本家。本名は小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。
女形俳優から転身した映画監督で、新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督となった。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹東宝大映長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった〔佐藤2007、p.202〕。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三
== 来歴・人物 ==

===女形俳優から映画監督へ===

1896年(明治29年)1月1日三重県亀山市大字東町(現在の亀山市本町)に、煙草元売捌業の父・小亀定助と母・かめのの4男として生まれる〔キネマ旬報1979、p.190〕〔鈴木2001、p.34〕。長兄の衡一は後に三重県会議員を3期務めながら、第7代亀山町長を務めている〔初代社長 小亀衡一 、亀山市歴史博物館、2015年3月20日閲覧〕。幼い頃から芝居好きの母親に連れられて歌舞伎新派、曾我廼家喜劇などを見るようになった〔。
1910年(明治43年)、亀山男子尋常高等小学校(現在の亀山市立亀山西小学校)高等科を卒業〔れきし散歩「衣笠貞之助、いつも見ていた故郷」 、2015年3月20日閲覧〕してから私塾の笹山塾に通い、1914年(大正3年)の修了後に役者を志すも両親に反対され、同年4月に家出をする〔〔キネマ旬報1976、p.134〕〔佐藤2007、p.201〕。汽車に乗って東京へ向かおうとした途中、大垣駅で停車中に「新派有無会」のポスターを見て汽車を降り、一座の宿を訪ねて女形に採用された〔〔衣笠1977、p.7-8〕。その日の午後に一座の出演する宝生座に出かけたところ、「藤田芳美という立女形が新たに作る一座に加わらないか」と勧誘され、藤田芳美一座に加入することになった〔〔。藤沢守の芸名で各地を巡業後、中京成美団などを経て、1916年(大正5年)に京都静間小次郎一座に加入〔衣笠1977、p.9〕。一座の花形井上春之輔の名をとって小井上春之輔と名乗り〔鈴木2001、p.32〕、女形として売り出した。
1917年(大正6年)、連鎖劇団の山崎長之輔一座に加わって大阪角座に出演中、日活大阪支店長の佐々野万寿男にスカウトされ、日活向島撮影所に女形俳優として入社〔〔〔鈴木2001、p.47〕〔長谷川一夫『舞台・銀幕六十年』、日本経済新聞社、1973年〕。芸名も衣笠貞之助に変え、翌1918年(大正7年)1月13日公開の『七色指環』(小口忠監督)が第1回出演作品となった。以後、革新映画の第1作といわれる田中栄三監督の『生ける屍』を始め、田中・小口監督の『金色夜叉』、田中監督の『己が罪』『西廂記』など、5年間で約130本の作品に出演し、日活向島を代表する女形として活躍した〔〔キネマ旬報1979、p.191〕。
1920年(大正9年)、この頃から映画界では女優の採用に踏み切り、女形新派の前途に限界を感じた〔キネマ旬報1976、p.134〕衣笠は監督に転向し、自身の脚本による『妹の死』で監督デビューする。『妹の死』は、機関士が自分で運転する機関車で可愛がっていた妹を轢いてしまうという物語〔衣笠1977、p.29〕で、藤野秀夫が機関士、横山運平が火夫を演じた〔。主人公の妹役を演じたのは衣笠自らで、その女装のままカメラの脇に立って演出を行ったという〔。
1922年(大正11年)9月、日活向島の総監督に就任した牧野省三に監督としての才能を買われ、向島在籍のまま牧野教育映画製作所で監督作を発表する〔。内田吐夢との共同監督による『噫小西巡査』や、菊池寛原作の『火華』などを同製作所で製作。この2作には自ら出演もしており、女形姿の衣笠が撮影技師の田中十三に「そこで絞って頂戴な」とカメラを指定したのは、後々まで話題となった〔キネマ旬報1976、p.135〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「衣笠貞之助」の詳細全文を読む




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