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徳富蘇峰 : ミニ英和和英辞書
徳富蘇峰[とくとみ そほう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とみ]
 【名詞】 1. wealth 2. fortune 
: [みね]
 【名詞】 1. peak 2. ridge 

徳富蘇峰 : ウィキペディア日本語版
徳富蘇峰[とくとみ そほう]

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日文久3年1月25日) - 1957年昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本ジャーナリスト思想家歴史家評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。
蘇峰はで、本名猪一郎(いいちろう)。正敬(しょうけい)。筆名菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号山王草堂主人頑蘇老人蘇峰学人銑研桐庭氷川子青山仙客伊豆山人など。生前自ら定めた戒名百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。
小説家の徳冨蘆花は弟。
== 経歴 ==

=== 生い立ちと青年時代 ===
1863年3月14日文久3年1月25日)、肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士徳富一敬の第五子・長男として生れた〔杉井(1989)〕〔田代(2004)〕〔父42歳、母35歳、祖父美信が猪一郎と命名。猪は亥で文久3年癸亥に生まれたことを証明するものである(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 日本図書センター 1997年 31ページ)〕。徳富家は代々葦北郡水俣惣庄屋代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」〔1884年(明治17年)3月刊の山脇之人『維新元勲十傑論』に由来する。〕 のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した〔。〔人間は真面目かつ正直で重厚質実であり、どこを探しても横着や軽薄という所はなかったという。老年に至っては好々爺であり、篤実の君子として世間からも生ける聖徒のように思われていた。しかし非常な癇癪持ちの側面もあったとされる(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 日本図書センター 1997年 25ページ)〕。
蘇峰は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉)〔肥後の最南端で、薩摩と境を接している。前は海に面し、後ろに山を背負っている。熊本から二十五里、鹿児島から二十八里で、双方のほぼ中間である。上古よりの駅路にて、延喜式にも記載せられている。大なる部落で山から材木、炭、薪をだし、浜辺には塩田があった。価格は第三位であった(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 日本図書センター 1997年 18-19ページ)〕に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った〔徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 日本図書センター 1997年 43ページ〕。
1871年明治4年)から兼坂諄次郎に学んだ。読書の力は暫時ついてきて、『四書』『五経』『左伝』『史記』『歴史網鑑』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑網目』等も読み、兼坂から習うべきもの少なくなった。1872年(明治5年)には熊本洋学校〔この学校は細川候が維新に当初に創立した。横井太平氏などの尽力でできた。多分最初は兵学校にでもするつもりであった。(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 日本図書センター 1997年 53ページ)〕に入学したが、年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという〔(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 日本図書センター 1997年 53ページ)〕。その後1875年(明治8年)に再入学。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄金森通倫浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった〔〔遠山(1979)pp.231-232〕。
熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都同志社英学校に転入学した。同年12月に創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け〔、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった〔。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした〔。
1880年(明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退した。
蘇峰は、こののち東京新聞記者を志願したが、志かなわず翌1881年(明治14年)、帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿してナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している〔。
1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設。1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史政治学経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた〔。その門下には宮崎滔天人見一太郎らがいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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