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横井小楠 : ミニ英和和英辞書
横井小楠[よこい しょうなん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よこ]
 【名詞】 1. beside 2. side 3. width 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [くすのき]
 【名詞】 1. camphor tree 2. cinnamonum camphora 

横井小楠 : ウィキペディア日本語版
横井小楠[よこい しょうなん]

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士熊本藩士)、儒学者、政治家。維新の十傑の1人。
熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。
本姓平氏。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる〔横井小楠 -その業績と生涯- (熊本市)〕。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平時存(たいら の ときひろ / ときあり)。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存北条四郎平時存ともいう。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある〔。は子操〔Kotobank 〕。
== 生涯 ==

=== 誕生・就学 ===
文化6年(1809年)8月13日、肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれる〔。
文化13年(1816年)、8歳で藩校・時習館に入校〔。天保4年(1833年)に居寮生となったのち、天保7年(1836年)の講堂世話役を経て、天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)となる〔。下津久馬(休也)とともに居寮新制度を建議、採用されるものの実施過程において頓挫する。このとき、家老の長岡是容の後ろ盾を得る。天保10年(1839年)、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。また、江戸滞在中に幕臣の川路聖謨水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。
しかし、同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、更に酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが咎められ、翌天保11年(1840年)2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処された〔。この間、小楠は朱子学の研究に没頭する〔。翌天保12年(1841年)頃より、長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開く。これが「実学党」となり、筆頭家老の松井章之を頭目とする「学校党」と対立することとなるが、藩政の混乱を避けるため長岡が家老職を辞職し、研究会を取り止める〔。また『時務策』を起草する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「横井小楠」の詳細全文を読む




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