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小堀政一 : ミニ英和和英辞書
小堀政一[こぼりまさかず]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほり]
 【名詞】 1. moat 2. canal 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [いち]
  1. (num) one 

小堀政一 : ウィキペディア日本語版
小堀政一[こぼりまさかず]

小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名茶人建築家作庭家備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。
一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位遠江守に由来する通称で後年の名乗り。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。
== 生涯 ==
天正7年(1579年)、小堀正次の長男として生まれる。父・正次は近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、縁戚であった浅井氏に仕えたが、浅井氏滅亡後は羽柴秀長の家臣となった。天正13年(1585年)、秀長は郡山城に移封されると、正次は家老となり、政一もともに郡山に移った。
この頃、秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなどし、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀長の兄・豊臣秀吉への給仕を務め、利休とも出会っている。また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく死去したため、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部茶道を学ぶことになる。
慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。
慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により従五位下遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。
居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、越後突抜町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和3年(1617年)に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。
元和5年9月(1619年10月)、近江小室藩に移封され、さらに元和8年8月(1622年9月)に近江国奉行に任ぜられる。ここに陣屋を整備し茶室も設けたが、政一はほとんど使わなかったと考えられている。元和9年12月(1624年1月)にさらに伏見奉行に任ぜられ豊後橋(現:観月橋)北詰に新たに奉行屋敷を設け、その後ほとんどここを役宅として暮らしたからである。
晩年になり真偽は不明であるが公金1万両を流用したとする嫌疑がかかった。しかし、酒井忠勝井伊直孝細川三斎らの口添えにより不問とされた。その後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし正保4年2月6日(1647年3月12日)、伏見奉行屋敷にて69歳で死去した。なお、子孫は松平定信により天明8年(1788年)に改易の憂き目に逢っているが、旗本として家名は存続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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