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駿府城 : ウィキペディア日本語版
駿府城[すんぷじょう]

駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡、現在の静岡県静岡市葵区にあった日本の城である。別名は府中城静岡城など。
江戸時代には駿府藩駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。
== 概要 ==
14世紀に室町幕府駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。今川氏は隣接する甲斐国武田氏相模国後北条氏と同盟を結び領国支配を行ったが、16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われた。
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという。その後1590年(天正18年)には、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する(甲斐の甲府城にも、同様に豊臣系大名が配置されている)。
江戸時代初期、家康は徳川秀忠将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した。ただし名目上は家康の子の頼宣による駿府藩50万石、ということになっている。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立した。天守閣は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大のものであった。しかし1607年(慶長12年)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失した。その後直ちに再建されたが、1610年(慶長15年)再建時の天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
1616年(元和2年)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治経済の中心地として大いに繁栄した。
現在では、天守・櫓・門などの建造物や三重の堀のうち外堀の三分の一と内堀(本丸堀)は埋め立てられて現存していないが、残された中堀・外堀の石垣が往時の姿を留めている。また、外堀と中堀の間にある旧三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し、中堀の内側にある旧二ノ丸・本丸は「駿府城公園」として整備されている。
1989年に市制100周年の記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が日本古来の伝統的在来工法によって復元された。内部は資料館となっており見学することができる。なお、天守台明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊されたが、同時に埋められた内堀(本丸堀)は部分的に発掘され保存されている。また、2014年平成26年)3月末には二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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