翻訳と辞書
Words near each other
・ 安政伊賀上野地震
・ 安政伊賀地震
・ 安政八戸沖地震
・ 安政勤王八十八廷臣
・ 安政十勝沖地震
・ 安政南海地震
・ 安政地震
・ 安政大地震
・ 安政小判
・ 安政条約
安政東海地震
・ 安政柑
・ 安政江戸地震
・ 安政異聞録 浄魂
・ 安政見聞録
・ 安政遠足
・ 安政飛越地震
・ 安斉かなえ
・ 安斉一博
・ 安斉由季


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

安政東海地震 : ミニ英和和英辞書
安政東海地震[あんせいとうかいじしん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
東海 : [とうかい]
 【名詞】 1. region south of Tokyo on Pacific Ocean side of Japan 2. eastern sea 
: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
地震 : [じしん]
 【名詞】 1. earthquake 

安政東海地震 : ウィキペディア日本語版
安政東海地震[あんせいとうかいじしん]

安政東海地震(あんせいとうかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月4日1854年12月23日)に発生した東海地震である。ここでいう「東海地震」とは南海トラフ東側半分の東海道沖が震源域となる地震のことであり、東南海地震の領域も本地震の震源域に含まれていた。
また、南海トラフ巨大地震の一つであり、約32時間後に発生した安政南海地震とともに安政地震、あるいは安政大地震とも総称される〔五つの大地震 高木金之助編、沢村武雄「五つの大地震」『四国山脈』毎日新聞社、1959年〕〔門村浩、松田磐余、高橋博 『実録 安政大地震 その日静岡県は』 静岡新聞社、1983年〕。この地震嘉永年間末に起きたが〔湯村哲男(1969) 湯村哲男(1969): 本邦における被害地震の日本暦について, 地震, 第2輯, 22, pp.253-255, 〕、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる〔神田茂(1970) 神田茂(1970): 本邦における被害地震の日本暦の改元について, 地震, 第2輯, 23, pp.335-336, 〕。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。本項では、同時に起きた東南海地震の震源域も含めて記述する。
安政南海地震の2日後には豊予海峡で''M'' 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震(''M'' 6.9-7.1)が起きた。本地震や安政南海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震までの安政年間に多発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。
江戸時代には南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、この他に慶長9年(1605年)に起きた慶長地震〔慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されている。- 石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03, 松浦律子(2013): 1605年慶長地震は南海トラフの地震か?, 第30回歴史地震研究会(秋田大会)〕、および宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。
== 地震 ==

=== 地震動 ===

嘉永七年甲寅十一月四日己巳下刻(五ツ半)(1854年12月23日、日本時間9時過頃)、熊野灘遠州灘沖から駿河湾を震源(北緯34.0°、東経137.8°〔)とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられている〔Masataka Ando(1975) Masataka Ando(1975) : Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the Nankai trough, Japan, ''Tectonophysics'', Vol. 27, 119-140.〕。ディアナ号の記録では9時15分に突き上げるような海震と思われる震動が2-3分間ほど継続したという〔石橋克彦 『大地動乱の時代 -地震学者は警告する-』 岩波新書、1994年〕〔大森房吉著『露国軍艦「ディアナ」号遭難記事』では、「9時45分に突然艦体が振動すること甚しく、約1分間続き」としている。Captain Sherard Osborn著の『A Cruise in Japanese Waters』では「At a quarter past nine, without any previous indication, the shock of an earthquake, which lasted two or three minutes, causing the vessel to shake very much, was felt both on deck and in the cabin.」と記されている。- 武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年〕。
この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている〔震災予防調査会編 『大日本地震史料』 下巻、丸善、1904年〕〔武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年〕〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年〕〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年〕〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 補遺 別巻』 日本電気協会、1994年〕〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 続補遺 別巻』 日本電気協会、1994年〕。安政の頃になると日記に加えて手紙などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる〔矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年〕。特に、寺院の記録は均質で信頼性のおけるデータとして震度分布の研究などに利用されている。
駿河湾岸沿いにおける震害が特に著しく、駿河湾西側および甲府盆地では軒並み震度7と推定されることから震源域は宝永地震よりもさらに駿河湾奥あるいは内陸まで入り込んでいたと推定される〔 中央防災会議 宇佐美(1989):歴史地震の震度分布〕〔 京都大学理学部 中西一郎・矢野信 1707年宝永地震震源域の東端位置〕。東北南部から中国四国まで震度4以上の領域が及び、震源域の長さは約300kmと推定される〔 都司嘉宣、行谷佑一(2007): 連動型巨大地震としての宝永地震(1707), 日本地球惑星科学連合2007年大会講演要旨,T235-010.〕〔公開講義2005 都司嘉宣「2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓」〕。
沼津藩士らによると揺れ始めはそれほど強くなかったが、やがて激震となり地面に腹ばいになっても振るい上げられる程であったという。この初期微動は煙草を四、五服吸うほどの時間であった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「安政東海地震」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.