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安政南海地震 : ミニ英和和英辞書
安政南海地震[あんせいなんかいじしん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
南海 : [なんかい]
 【名詞】 1. southern sea 
: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
地震 : [じしん]
 【名詞】 1. earthquake 

安政南海地震 : ウィキペディア日本語版
安政南海地震[あんせいなんかいじしん]

安政南海地震(あんせいなんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日1854年12月24日)に発生した南海地震である。
南海トラフ巨大地震の一つであり、約32時間前に発生した安政東海地震東南海地震含む)と共に安政地震安政大地震とも総称される〔五つの大地震 高木金之助編、沢村武雄「五つの大地震」『四国山脈』毎日新聞社、1959年〕。この地震嘉永年間末に起きたが〔湯村哲男(1969) 湯村哲男(1969): 本邦における被害地震の日本暦について, 地震, 第2輯, 22, pp.253-255, 〕、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる〔神田茂(1970) 神田茂(1970): 本邦における被害地震の日本暦の改元について, 地震, 第2輯, 23, pp.335-336, 〕。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。
安政南海地震の2日後には豊予海峡で''M'' 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震(''M'' 6.9-7.4)が起きた。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震まで安政年間に連発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。
江戸時代には南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、この他に慶長9年(1605年)に起きた慶長地震〔慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されている。- 石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03, 松浦律子(2014): , 歴史地震, 第29号, 263.〕、および宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。
== 地震 ==

=== 地震動 ===

嘉永七年甲寅十一月五日庚午下刻(七ツ半)(1854年12月24日、日本時間16時半頃)、紀伊半島から四国沖を震源(北緯33.0°、東経135.0°〔)とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられている〔Masataka Ando(1975) : Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the Nankai trough, Japan, ''Tectonophysics'', Vol. 27, 119-140.〕。
当日、土佐は小春日和の快晴で、高知城下は南川原にて相撲巡業があり、見物客が群集をなすところに地震が襲い、一時大混乱に陥った〔寺石正路 『土佐古今ノ地震』 土佐史談会、1923年〕。『桑滄談』の記録によれば土佐入野(現・黒潮町大方地区)においては、初めゆるゆる震い次第に強くなりやがて激震になったという〔中村市 『中村市史 続編』 1984年〕。
畿内では昨日の東海地震に続いて「又々大地震」となり、三河吉田田原および名古屋など前日に地震津波で甚大な被害となった東海地方各地でも、又々長い地震動に続いて西方から雷鳴が聞かれた。新居宿では暮六ツ時(17時頃)に地震少々震う内に日の入りとなり、申酉(西)の方から「どう/\/\」と鳴音が大雷の如くなりと記録されている(『安政大地震』新居町関所資料館)〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年〕。
小浜(現・小浜市『続地震雑纂』)や尾鷲九鬼(現・尾鷲市『九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留』)では地震動は南海地震より東海地震の方が強く感じられたが、那智勝浦(現・那智勝浦町『嘉永七年寅十一月 大地震洪浪記録書』)や湯浅(現・湯浅町深専寺門前碑文』)・広(現・広川町濱口梧陵手記』)では南海地震の方が強く感じられた〔。京都(現・京都市)では東海地震の方がやや強いか(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』)、ほぼ同程度で(『御広間雑記』)、大坂でも両地震の強さは同程度であり(現・大阪市『鍾奇斎日々雑記』)、破損の度合いを加えたが、南海地震では津波被害も加わった〔〔武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年〕。
この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている〔〔〔震災予防調査会編 『大日本地震史料』 下巻、丸善、1904年〕〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年〕〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 補遺 別巻』 日本電気協会、1994年〕〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 続補遺 別巻』 日本電気協会、1994年〕。安政の頃になると日記に加えて手紙などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる〔矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年〕。
震度6と推定される領域は四国太平洋側から紀伊水道沿岸部、淡路島大阪平野および播州平野、震度4以上の領域は九州から中部地方に及び〔 中央防災会議 宇佐美(1989):歴史地震の震度分布〕、震源域の長さは約400kmと推定される〔 都司嘉宣、行谷佑一(2007): 連動型巨大地震としての宝永地震(1707), 日本地球惑星科学連合2007年大会講演要旨,T235-010.〕〔公開講義2005 都司嘉宣「2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓」〕。
『中国地震歴史資料彙編』には江蘇粛県や嘉定(上海市郊外)で「水溢地震」、上海で「黄浦水沸二三、嘉定、蘇州皆同」と記されており〔宇津徳治(1988) 宇津徳治(1988): 日本の地震に関連する中国の史料, 『地震』第2輯, 41 , pp.613- 614, 〕、震央から約1300km離れた中国の上海でも有感であったという〔石橋克彦 『大地動乱の時代 -地震学者は警告する-』 岩波新書〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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