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宇都宮戦争 : ミニ英和和英辞書
宇都宮戦争[せんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みやこ]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

宇都宮戦争 ( リダイレクト:宇都宮城の戦い ) : ウィキペディア日本語版
宇都宮城の戦い[うつのみやじょうのたたかい]

宇都宮城の戦い(うつのみやじょうのたたかい)は、戊辰戦争の戦闘の1つ。慶応4年4月19日23日旧暦新暦1868年5月11日15日)、現在の栃木県宇都宮市にある下野宇都宮城で2度攻城戦が行われた。
宇都宮藩兵をはじめ野州世直しを鎮圧するために武蔵板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた戦役。この戦いの結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失した。
== 背景 ==
日付は旧暦、()は新暦で記す。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が惨敗した慶応4年(1868年)初頭、全国で起きていた「ええじゃないか」や「世直し」が上野から下野にも飛び火、下野南部で興った農民達が庄屋本陣などを打ち壊しながら北上した。同年4月1日4月23日)、農民集団は宇都宮城下南部に迫り宇都宮藩も説得を試みるがこれに応ぜず、3日25日)には宇都宮城下八幡山に結集、規模は3万人に達していた。農民集団は宇都宮城内への突入にこそ失敗したものの、反転して鹿沼今市方面で打ち壊しを続けた(野州世直し)。
一方、宇都宮藩家老の県信緝はこの事態を板橋の東山道総督府に報告。1日、農民集団が宇都宮城に迫った同じ日に総督府は宇都宮への救援軍派遣を決定した。翌2日24日)には東山道総督府軍大軍監香川敬三率いる兵200人が宇都宮に向かい、途中粕壁宿で下総流山新選組が潜伏しているという報を受ける。至急有馬藤太らを流山に向かわせ越谷まで連行されてきた新選組局長近藤勇に香川は新政府側に下るよう説得するが近藤が拒否、香川らは止む無く近藤を板橋の総督府に送還することとなる。この後2手に分かれ一手を香川が率いて7日29日)に宇都宮城に入城、日光を巡回すると共に、もう一手である祖式隊も途中結城から真岡を巡り世直し騒動は沈静化をみた。
騒動後の12日5月4日)、近藤を捕縛された新選組の隊士等下総市川の国府台大林寺に結集していた旧幕府側の歩兵隊約2,000人は、徳川政権の聖地日光廟(日光東照宮)で決戦を行うため北上を開始した。この歩兵隊は、当時最新鋭の火器〔明治維新の際に幕府兵伝習隊が有していた火器の性能は、当時の日本の各藩が標準装備していた銃より射撃間隔が短く、また射程距離も倍程度あったと言われている。〕を具しフランス式歩兵兵術で訓練された精鋭伝習隊を中心とし、これに歩兵第七連隊や桑名藩隊、回天隊、新選組等が参加、軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介土方歳三が務めていたとされる。旧幕府軍は下総松戸小金宿で大鳥率いる本隊と土方率いる別動隊の二手に分かれ、宇都宮城を東西から挟撃するため、それぞれ下野壬生・鹿沼および真岡へと向かった。
* 旧幕府軍陣容:約2,200人(後発隊を合わせると約3,250人)
 * 指揮官:大鳥圭介土方歳三江上太郎(秋月登之助)、本多幸七郎辰巳鑑三郎(立見尚文)、山瀬主馬相馬左金吾
  * 前軍:約1,000人(別動隊)
   * 伝習隊歩兵第一大隊:700人 隊長:江上太郎
   * 桑名藩兵:200人 隊長:辰巳鑑三郎
   * 回天隊:50人 隊長:相馬左金吾
   * 新選組:30人 隊長:土方歳三
  * 中軍:約600人(大鳥本隊)
   * 伝習隊歩兵第二大隊:600人 隊長:本多幸七郎
  * 後軍:約600人(大鳥本隊)
   * 歩兵第七連隊:350人 隊長:山瀬主馬
   * 砲兵隊:250人
  * 後発隊:約1,000人
   * 御料兵:100人 隊長:加藤平内(旗本)
   * 新選組:30人 隊長:永倉新八
   * 草風隊:150人 隊長:天野電四郎(伝習隊の上層部隊)
   * 貫義隊:100人 隊長:松平兵庫頭
   * 純義隊:600人 隊長:渡部綱之助
   * 凌霜隊:50人 隊長:朝比奈茂吉(郡上藩
大鳥隊(旧幕府軍本隊)は15日5月7日)に下総古河の諸川まで進軍、翌16日5月8日)には下総国内で新政府軍と接触、これを退けて勢いに乗って北上、小山宿で宇都宮から南下して来た新政府軍・香川隊(彦根藩兵など)と交戦し、最新兵装と最新兵術をもってこれを敗走させた(小山の戦い)。当初入る予定であった壬生には既に新政府軍が駐留していたため壬生通り飯塚宿で反転、18日5月10日)に栃木に入り翌19日(5月11日)には鹿沼へと転進した。一方の旧幕府軍別動隊(江上、辰巳、土方隊)は、松戸小金宿から水海道(現・常総市)、下妻(現・下妻市)、下館(現・筑西市)を経て、19日には真岡付近まで進軍していた。
また一方で、旧幕府軍の動きに呼応し、会津藩の藩士・藩兵が下野国内高徳藩領や日光山領、宇都宮藩周辺にまで進出、各所において静かに活動を起こし、宇都宮周辺の治安は一触即発の状態が続いていたとされる。この勢力には出羽庄内藩を目指して江戸を発した旧幕府の精鋭歩兵隊の一部、つまり後の衝鋒隊もあったという。これらは宇都宮中北部周辺に散在する山々に陣取って新政府軍の北上を偵察・牽制し、宇都宮城の落城と共に会津に撤退したと言われている。
こうした旧幕府軍の動きに対し、新政府軍は前日の18日、小山での敗戦後に宇都宮へと帰還していた香川隊100人と、前宇都宮藩主戸田忠恕率いる宇都宮藩兵300人、救援に駆けつけた烏山藩兵100人の計人が宇都宮城の守備を固める一方、東山道総督府軍が宇都宮城攻城戦に向け緊急派遣した鳥取藩河田景与率いる藩兵3小隊)、土佐藩祖父江可成率いる藩兵迅衝隊5小隊と砲兵隊)、松本藩の各藩兵が下総古河に、薩摩藩伊地知正治率いる藩兵五番隊と砲兵隊)、長州藩(藩兵第一大隊第二中隊)、大垣藩(藩兵2小隊)の各藩兵が同幸手に進軍して来ていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宇都宮城の戦い」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Utsunomiya Castle 」があります。




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