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鳥羽・伏見の戦い : ミニ英和和英辞書
鳥羽・伏見の戦い[とば ふしみのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とり]
 【名詞】 1. bird 2. fowl 3. poultry 
: [わ, はね]
  1. (n-suf) counter for birds 2. counter for rabbits 
: [ふく]
  1. (n,vs) stoop 2. bend down 3. crouch 4. lie down 5. prostrate oneself 6. fall prostrate 7. hide 8. yield to 9. submit to
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

鳥羽・伏見の戦い : ウィキペディア日本語版
鳥羽・伏見の戦い[とば ふしみのたたかい]

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦いである。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。
== 背景 ==
嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、国内の不安定化が進む中、薩摩藩は有力諸侯による合議態勢を模索するが、江戸幕府・関係諸藩との見解の一致は困難であった。武士階級は上位者に判断を委ねる構造で安定してきた為、余程の事態にならない限り、自身の職責の埒外を公然と論じる事はおろか、知ること、考える事ですら、ともすれば悪徳となっていた。宗家親藩譜代にとっては、特に従前の組織の運営と維持が義務であり美徳であった。
一方、外様で体制の末端におかれた下級武士の間では国学が流行しつつ有った。彼らは当初攘夷論を唱え、危機にあたって対応できない幕府への危機感を募らせた。しかし国学はイデオロギーに過ぎず、西洋諸国に対する客観的な状況を示すものではなく、夢想的な攘夷論が流行した。西国においては洋学に明るい者が幕藩体制の変革を訴え始め、幕府は安政5年から6年(1858年 - 1859年)にかけてこれを弾圧した(安政の大獄)が、万延元年(1860年)に主導者の大老井伊直弼が大獄の反動で暗殺され(桜田門外の変)、幕府の権威は失墜した。やがて国内の不安を背景に朝廷は政争の舞台となり、京都では攘夷派による天誅と称する幕府関係者への暗殺が横行するようになる。幕府は徳川系の親藩で大きな武力を持つ会津藩桑名藩などに命じてこれを厳しく取り締まったが、これは安政の大獄と同じく、対症療法に過ぎなかった。
当初、過激な尊王攘夷論を背景に幕府と鋭く対立していた長州藩元治元年(1864年)に勃発した禁門の変下関戦争での完敗と幕府による第一次長州征討を経て、それまで失脚していた俗論派(佐幕派)に藩の実権が渡った。しかし、挙兵した正義派(倒幕派)が翌慶応元年(1865年)の元治の内乱で俗論派を打倒し、藩論を尊王倒幕の方向で一致させる。それを見た幕府は慶応2年(1866年)に第二次長州征討を行うも、敗北を重ねて失敗に終わった。この長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒し、幕府の威信を大きく低下させた。
一方、文治3年(1863年)に薩英戦争で挙藩一致を見た薩摩藩は、四侯会議が失敗すると、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、徳川家を排除した新政権の樹立へと方針を転換するようになる。対して幕府の主要な構成層には未だに情勢に明るいものが殆どおらず、意思統一は困難であった。大半の幕臣にとって、大政奉還こそが初めて自身に降りかかった火の粉となった。
慶応3年(1867年10月13日公武合体の考えを捨てた下級公家の岩倉具視らの働きかけにより、倒幕及び会津桑名討伐の密勅が下る。この動きに対し、翌14日、かねてより元土佐藩山内容堂より建白の有った15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上表した。これは薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている(公議政体論)。外交能力を保たない朝廷は慶喜に引き続きこれを委任、思惑は成功したかに見えたが、諸国の大名が様子見をして上京しないまま諸侯会議は開かれず、旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。
そして、在京の旧幕府配下の諸軍から見れば、倒幕派は長年取り締まってきた宿敵であり、それに敗北することは破滅を意味した。いずれにせよ、大政奉還により幕府が消滅したことで倒幕の大義名分は消失し、京都においても旧幕府の武力は健在な儘となった。
これに対し、薩摩藩士大久保利通や岩倉具視らは12月9日王政復古の大号令を発し、前将軍慶喜に対し辞官納地を命じた。翌10日、徳川家親族の新政府議定松平春嶽徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能と返答した。旧幕府の退勢を知らない主戦派の暴走を懸念した慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12日深夜には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、翌13日大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入った後慶喜からの連絡が途絶えた。
23日24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度春嶽と慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた。
先の10月13日及び14日の討幕の密勅は江戸の薩摩邸にも伝わり、討幕挙兵の準備と工作活動が行われていたが、直後の大政奉還で、21日に討幕の密勅が取り消される。その討幕挙兵中止命令と工作中止の命は江戸の薩摩邸にも届いたが、動き出した攘夷討幕派浪人を止めることはできずにいた。度重なる騒乱行動を起こした攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸は匿っていたために12月25日庄内藩江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。28日にこの報が大阪に届くと、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まった。慶応4年(1868年)元日、慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府軍の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着しているが、揃えられた兵力はわずか50名であった〔水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P274-277〕。
3日(1月27日)、朝廷では緊急会議が召集された。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「鳥羽・伏見の戦い」の詳細全文を読む




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