翻訳と辞書
Words near each other
・ 徳川忠直
・ 徳川忠輝
・ 徳川忠長
・ 徳川恆孝
・ 徳川恒孝
・ 徳川恵理
・ 徳川愛子
・ 徳川慶久
・ 徳川慶光
・ 徳川慶勝
徳川慶喜
・ 徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)
・ 徳川慶喜家
・ 徳川慶壽
・ 徳川慶寅
・ 徳川慶寿
・ 徳川慶恕
・ 徳川慶昌
・ 徳川慶朝
・ 徳川慶福


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

徳川慶喜 : ミニ英和和英辞書
徳川慶喜[とくがわ よしのぶ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

徳川慶喜 : ウィキペディア日本語版
徳川慶喜[とくがわ よしのぶ]

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応3年(1867年) ‐ 慶応4年(1868年))。江戸幕府最後の将軍であり、歴史上征夷大将軍に任じられた最後の人物。
御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵貴族院議員
== 生涯 ==

=== 幼年期 ===
天保8年(1837年9月29日江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた〔男系の血筋として慶喜は初代高松藩主・松平頼重の四男である松平頼侯(よりとし)の男系子孫である。〕。
母は正室・吉子女王〔第3代・家光以来となる正室を生母とした将軍である。〕。幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)〔「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。また、御三家・御三卿の当主と世子以外は松平姓を称えることになっていた。〕。
慶喜は、2代目藩主・光圀に感化され、嫡子以外の男子は国許(水戸)で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移り、弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。この間、藩校・弘道館会沢正志斎らから学問・武術を教授された。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「徳川慶喜」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.