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徳川忠直 : ミニ英和和英辞書
徳川忠直[ひた, ちょく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly

徳川忠直 ( リダイレクト:松平忠直 ) : ウィキペディア日本語版
松平忠直[まつだいら ただなお]

松平 忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代初期の大名越前北ノ庄(福井)藩主。結城秀康の長男で、母は側室の中川氏〔「松平忠直」、参考文献の1、389頁。〕。徳川家光徳川光圀などの従兄にあたる。
== 生涯 ==
文禄4年(1595年)、摂津国東成郡生魂で誕生する。慶長8年(1603年)、江戸参勤のおりに将軍・秀忠に初対面、秀忠は大いに気に入り三河守と呼んで自らの脇に置いたという。慶長12年(1607年)、父・秀康の死に伴って越前75万石を相続し、慶長16年(1611年)には叔父(秀康の弟)である将軍徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。元服の際には秀忠より偏諱を授かり忠直と名乗る。
慶長17年(1612年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌慶長18年(1613年)6月、家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直が、まだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(「越前騒動」)〔「越前の国に騒動の事起こりて以ての外に騒動す……」、参考文献の2、14-15頁。〕。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・徳川家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入る〔この時、忠直自身も首を一つ取ったという。この時の越前藩兵の勇戦ぶりを「かかれかかれ越前衆、たんだかかれの越前衆 命知らずの嬬黒の旗」と詠んだ歌もある。〕などの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。元和7年(1621年)、病を理由に江戸への参勤を怠り〔ただし、福井地方の郷土資料である『片聾記』には元和6年(1620年)に忠直が発病したという記録があり、元和7年の参勤を行わなかったことは恩賞に対する不満ではない可能性もある。〕、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
元和9年(1623年)、将軍秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。5月12日竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。府内藩では領内の5000石を与えられ、初め海沿いの萩原に住まい、3年後に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う〔松平忠直卿居館跡 一般社団法人 大分市観光協会〕〔 渡辺克己、大分合同新聞社、2008年1月25日〕〔 渡辺克己、大分合同新聞社、2008年2月15日〕。竹中が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。慶安3年(1650年)に死去、享年56〔配流、参考文献の2、18頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松平忠直」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Matsudaira Tadanao 」があります。




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