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真田信繁 : ミニ英和和英辞書
真田信繁[さなだ のぶしげ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まこと, しん, ま]
  1. (adj-na,n) (1) truth 2. reality 3. genuineness
真田 : [さなだ]
 【名詞】 1. plait 2. braid
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

真田信繁 : ウィキペディア日本語版
真田信繁[さなだ のぶしげ]

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将真田昌幸の次男。真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍した。特に大坂夏の陣において3,500の兵を率いて徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な武者振りの話が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、後世、そこから軍記物講談草双紙(絵本)などが創作された。さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。
== 「真田幸村」の由来 ==

「真田幸村」の名が広く知られているが、は「信繁」が正しい〔。直筆の書状を始め、生前の確か史料で「幸村」の名が使われているものは無く、幸村と署名された古文書が二通現存している〔『真武内伝附録』『大峰院殿御事蹟稿』。〕ものの、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならず、真田左衛門佐の諱は信繁であったと判断できる〔平山優『真田信繁』(角川選書、2015年), 19-25頁〕からである。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣以後、60年近く経た、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であるとされる。『難波戦記』では大坂に入って幸村と改名したとするが、前述のようにこれを使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも実際には「信繁」を用いている〔。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家通字であり、「村」については俗伝で介錯に村正を用いたとされたことに由来するといい、誤伝であったが、徳川家に仇なす妖刀村正の逸話の一つとして「幸村」の名が元禄時代には広く知られていたとする。
しかし時代が下るにつれ「幸村」の名があまりに定着したので、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。
大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している〔『御事績類典』〕。
篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが初めて否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する〔篠原幸久「真田幸村の名について-歴史と伝説の狭間に-」(『信濃』63巻11号、2011年)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「真田信繁」の詳細全文を読む




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