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有栖川宮熾仁親王 : ミニ英和和英辞書
有栖川宮熾仁親王[ありすがわのみや たるひとしんのう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [う, ゆう]
  1. (n,vs) possession 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [にん, じん]
 (n) kernel
親王 : [しんのう]
 【名詞】 1. prince of royal blood 2. Imperial prince
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

有栖川宮熾仁親王 : ウィキペディア日本語版
有栖川宮熾仁親王[ありすがわのみや たるひとしんのう]

有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日1835年3月17日) - 明治28年(1895年1月15日)は、江戸時代後期~明治時代日本皇族政治家軍人は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級
有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥国事御用掛、政府総裁、東征大総督兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣陸軍参謀本部長、参謀総長神宮祭主
和宮親子内親王と婚約していたことで知られる〔#三島由紀夫のニ・ニ六事件76-77頁〕。だが和宮との婚約は時の政治情勢により反故となり、旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年(1895年)に61歳で薨去有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した〔。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
天保6年(1835年)2月19日、熾仁親王は京都御所北東(艮)の有栖川宮邸内において、幟仁親王の第1子として誕生した。生母の佐伯祐子は通称を嘉奈といい、京都若宮八幡宮宮司・佐々祐條の娘であった。実はこのとき、父である幟仁親王はまだ正室の二条廣子と結婚する前であり、熾仁親王は後の嘉永元年9月(1848年10月)に廣子と養子縁組を行っている。熾仁親王の胞衣は当時の風習により出世稲荷神社の境内に埋め、その上には松の木が植えられた。お七夜の儀に際し「歓宮」の幼名を授けられる。
嘉永元年10月18日1848年11月13日)、熾仁親王はすでに崩御していた仁孝天皇猶子となる。翌嘉永2年2月14日1849年3月8日)、孝明天皇より「熾仁」の諱を賜り、2日後の2月16日3月10日)に親王宣下を受けた。
この年の3月15日4月7日)、熾仁親王は近衛忠煕の加冠により元服し大宰帥に任命、翌日には三品に叙せられた。以後、慶應3年に新政府の総裁職に任命されるまで、熾仁親王は「帥宮(そつのみや)」と呼ばれた。従って、幕末関連の文書で「帥宮様」「帥宮御方」などと書かれているのは全て熾仁親王のことを指す。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「有栖川宮熾仁親王」の詳細全文を読む




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