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大化の改新 : ミニ英和和英辞書
大化の改新[たいかのかいしん]
(n) Taika Reform of 645CE
===========================
大化の改新 : [たいかのかいしん]
 (n) Taika Reform of 645CE
: [か]
 (suf) action of making something
: [かい]
 (n-suf) revision
改新 : [かいしん]
  1. (n,vs) reformation 
: [しん]
  1. (n,n-suf,pref) new 
大化の改新 : ウィキペディア日本語版
大化の改新[たいかのかいしん]

大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿暗殺蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。
また「大化」は日本最初の元号である。
== 概要 ==
大化2年(646年)1月に改新の詔を出した。この改新の詔を以て大化の改新の始まりとする。ただし、昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明らかになり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明した。この時代に改革に向けた動きがあったことは確かとはされているものの、書かれていることは史実ではないことに注意する必要がある。〔木下正史『藤原京』「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」(中央公論新社、2003年 p64)〕〔市大樹『飛鳥の木簡』「大化改新はあったのか」(中央公論新社、2012年 p49)〕。
詔として出された主な内容は以下の四条である。

#それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。(公地公民制
#初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、(あがた)、(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。
#戸籍計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法
#公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調
また詔の四か条に無いが、その他の制度に対しても大きな改革が行われている。
;薄葬令
:今まで陵墓は自由に作ることができたが、作ることの出来る陵墓を身分に合わせて規定し直した。殉死の禁止や、天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、さまざまな合理化・簡素化が進められた。この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることになる。
;習俗の改革
:男女の法の整理
:交通問題の解決
;伴造、品部の廃止と八省百官の制定
:従来の世襲制の役職であった伴造品部を廃止し、特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止した(たとえば、物部氏であれば軍事を司り、中臣氏であれば祭祀を司る、など)。これと八省百官の制定によって、より能力主義的な官僚制への移行が行われた(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行うというように世襲制が残った役職もあったようである)。
;大臣大連の廃止
:大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣右大臣に置き換わった。大臣は(かばね)から、大連はの姓から出されることになっていたが、左大臣・右大臣(後に付け加わる太政大臣)などでは、臣・連の制約が無くなった。
;冠位制度の改訂
:聖徳太子の制定した冠位十二階を改定し、大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→天智3年(664年)二十六階へと改めた。これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、天皇を頂点とした中央集権的な序列をつける為の改革だと思われる。冠位の数が年々増加していったのは、膨大な人員を必要とする官僚制への切り替えにより、行政実務を担う下級官僚に与える冠位が不足したからと推測できる。(冠位・位階制度の変遷
;礼法の策定
:職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。冠位のない一般の良民は白い衣を身につける事とされ、これは白丁と呼ばれた。
大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。
政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、渟足柵磐舟柵を設けて、東北地方蝦夷に備えた。
ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることがそれを物語っている。翌大化5年(649年)左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。650年に年号が白雉と改められ、この改元をもって大化の改新の終わりとされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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