翻訳と辞書
Words near each other
・ 中国美術
・ 中国美術館
・ 中国聯合準備銀行
・ 中国聯合航空
・ 中国聯合通信
・ 中国聯通
・ 中国職業能力開発大学校
・ 中国職業能力開発大学校附属島根職業能力開発短期大学校
・ 中国脅威論
・ 中国脳
中国臨済禅
・ 中国自動車道
・ 中国自動車道女子中学生手錠放置事件
・ 中国自動車道高級車多重衝突事故
・ 中国自然歩道
・ 中国至憲党
・ 中国致公党
・ 中国興業銀行
・ 中国航天工業公司
・ 中国航天科工集団


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

中国臨済禅 : ミニ英和和英辞書
中国臨済禅[ちゅうごく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中国 : [ちゅうごく]
 【名詞】 1. (1) China 2. (2) South-west most region of Honshu 3. middle of a country 4. the Hiroshima area 
: [くに]
 【名詞】 1. country 
: [すみ]
 【名詞】 1. arranged 2. taken care of 3. settled
: [ぜん]
 【名詞】 1. Zen (Buddhism) 

中国臨済禅 ( リダイレクト:臨済宗#中国における臨済宗 ) : ウィキペディア日本語版
臨済宗[りんざいしゅう]

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国禅宗五家(臨済、潙仰曹洞雲門法眼)の1つで、日本においては禅宗臨済宗曹洞宗日本達磨宗黄檗宗普化宗)の1つである。
中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南岳懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。
== 中国における臨済宗 ==
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度使の王紹懿(中文版英語版)(?-866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張したが、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。
臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋代であり、石霜楚円の門下より、ともに江西省を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
南宋代になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063 - 1135年)の弟子の大慧宗杲が、浙江省を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「臨済宗」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Linji school 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.