翻訳と辞書
Words near each other
・ 万達広場
・ 万邦
・ 万里
・ 万里の河
・ 万里の長城
・ 万里の長城遭難事故
・ 万里ヶ島
・ 万里区
・ 万里堂東湖
・ 万里小路事件
万里小路仲房
・ 万里小路充房
・ 万里小路冬房
・ 万里小路博房
・ 万里小路嗣房
・ 万里小路孝房
・ 万里小路季房
・ 万里小路宣房
・ 万里小路家
・ 万里小路局


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

万里小路仲房 : ミニ英和和英辞書
万里小路仲房[までのこうじ なかふさ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よろず]
  1. (adv,num) 10,000 2. ten thousand 3. myriads 4. all 5. everything
万里 : [ばんり]
 【名詞】 1. thousands of miles 
: [り]
 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles 
小路 : [しょうじ]
 【名詞】 1. lane 2. alley
: [ろ]
 【名詞】 1. road 2. street 3. path
: [なか]
 【名詞】 1. relation 2. relationship 
: [ぼう, ふさ]
 【名詞】 1. tuft 

万里小路仲房 : ウィキペディア日本語版
万里小路仲房[までのこうじ なかふさ]

万里小路 仲房(までのこうじ なかふさ)は南北朝時代の公卿。従一位准大臣参議右大弁万里小路季房の長男。母は宮内卿藤原顕相の娘。父が元弘の乱に関わって斬られたため、祖父宣房の子として家を継いだ。孫の時房は日記『建内記』の記者として知られる。仲房が准大臣宣旨を受けた辺りから万里小路家が足利将軍家に重用されるようになっていく。子は嗣房、頼房、茂房、定玄、見怡、中院通氏の妻となった女子がいる。
== 経歴 ==
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
嘉暦3年(1328年)5月8日、中宮権少進に任ぜられる。6月23日には権少進を止める。嘉暦4年(1329年)2月10日、叙爵元徳2年(1330年)5月26日、民部権少輔に任ぜられる。元弘3年(1333年)5月20日、父季房が斬られる。同年11月8日、従五位上に昇叙。元弘4年(1334年)1月13日、備前守を兼ねる。8月10日には春宮権大進に任ぜられる。9月14日、民部権大輔を兼ねる。建武2年(1335年)1月27日、権大輔を止める。11月12日、右兵衛佐を兼ねる。建武3年(1336年)1月5日、正五位下に昇叙(春宮当年御給)。10月10日には権大進を止める。建武4年/延元2年(1337年)1月18日、備前守を止める。12月4日には右兵衛佐を止める。暦応3年/興国元年(1340年)12月6日、五位蔵人に補され、同月27日に右衛門督に任ぜられる〔右衛門佐が正しいか。〕。
康永元年/興国3年(1342年)12月21日、右少弁に任ぜられる。康永2年/興国4年(1343年)1月20日、蔵人を止める。康永3年/興国5年(1344年)1月5日、正五位上に昇叙。貞和元年/興国6年(1345年)11月14日、左少弁に転任。貞和3年/正平2年(1347年)12月27日、右中弁に転任し、同日中に従四位下に昇叙。貞和4年/正平3年(1348年)3月20日、左中弁に転任し、8月10日には更に右大弁に転任。10月27日には春宮亮を兼ねる。さらに従四位上に昇叙。貞和5年/正平4年(1349年)1月5日、正四位下に昇叙。9月13日、蔵人頭に補される。貞和6年/正平5年(1350年)1月5日、正四位上に昇叙。観応元年/正平5年(1350年)4月14日、造東大寺長官となる。8月16日には左大弁に転任。観応2年/正平6年(1351年)閏2月20日、春宮亮を止める。観応3年/正平7年(1352年)8月15日、新帝後光厳天皇の蔵人頭に補される。
文和2年/正平8年(1353年)7月23日、参議に任ぜられる。同日、左大弁、造東大寺長官は元の如し。文和3年/正平9年(1354年)1月7日、従三位に叙される。3月28日、出雲権守を兼ねる。8月27日には大嘗会検校に補される。文和4年/正平10年(1355年)8月13日、権中納言に任ぜられる。12月28日には勅授帯剣を許される。延文6年/正平16年(1361年)1月5日、正三位に昇叙。康安2年/正平17年(1362年)5月7日、大宰権帥を兼ねる。貞治2年/正平18年(1363年)1月5日、従二位に昇叙。4月20日、権中納言を辞したが、同月27日には本座を許される。太宰権帥はそのまま。
貞治4年/正平20年(1365年)6月28日、権大納言に任ぜられる。11月1日には母の喪に服す。貞治5年/正平21年(1366年)1月6日、復任した。貞治6年/正平22年(1367年)1月5日、正二位に昇叙。同月28日には記録所の上卿となる。貞治7年/正平23年(1368年)2月21日、按察使を兼ねる。応安2年/正平24年(1369年)1月、元日と白馬の節会の内弁を勤め、叙位執筆を担う。応安3年/建徳元年(1370年)、再び叙位執筆を担う。応安4年/建徳2年(1371年)3月11日、権大納言を辞退〔按察使はそのまま。〕。4月25日、本座を許される。
永和2年/天授2年(1376年)1月6日、按察使を止め、従一位に叙される〔この時、前権大納言従一位には源宗明がいた。〕。永徳2年/弘和2年(1382年)4月19日、准大臣宣旨が下る〔同月8日には正親町三条実音に先に准大臣宣旨が下っている。〕。嘉慶2年/元中5年(1388年)6月2日、薨去〔同年12月には嫡男嗣房が権大納言を辞している。なお、嗣房は明徳元年/元中7年(1390年)には権大納言に還任し、応永2年(1395年)には従一位に昇叙。応永3年(1396年)7月には万里小路家で初めて内大臣に任ぜられる。また、嗣房が従一位に叙せられる前月に足利義満太政大臣を辞している。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「万里小路仲房」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.