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ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入 : ミニ英和和英辞書
ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入[ろしあによるくりみあ せヴぁすとぽりのへんにゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [へん]
  1. (n,n-suf) compilation 2. editing 3. completed poem 4. book 5. part of book 
編入 : [へんにゅう]
  1. (n,vs) admission 2. incorporation 
: [にゅう]
 【名詞】 1. go in 

ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入 : ウィキペディア日本語版
ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入[ろしあによるくりみあ せヴぁすとぽりのへんにゅう]

ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入(ロシアによるクリミア・セヴァストポリのへんにゅう)は、国際的にウクライナの領土と見なされているクリミア自治共和国セヴァストポリ特別市をロシア連邦の領土に加えるもので、2014年3月18日にロシア、クリミア、セヴァストポリの3者が調印した条約に基づき実行された。1991年のソビエト連邦崩壊・ロシア連邦成立後、ロシアにとって本格的な領土拡大となった。クリミアとセヴァストポリにおける住民投票、独立宣言、編入要望決議、そしてロシアとの条約締結という段階を踏んで編入宣言が行われたが、国際連合やウクライナ、そして日本を含む西側諸国などは主権・領土の一体性やウクライナ憲法違反などを理由としてこれを認めず、現在、編入は国際的な承認を得られていない。
== 歴史的背景 ==


ロシアは、988年に全ルーシの共通の祖先であるウラジーミル1世が洗礼を受けルーシのキリスト教化の端緒を開いたのは、当時東ローマ帝国の支配下にあった古代ギリシャ都市ケルソネソスであったとして、クリミアが「ロシア固有の領土」であることを主張している。一方、ウクライナは、モスクワに関するはじめての記述は1147年であるとし、そもそもキエフ・ルーシをロシアの起源であるとの立場を認めない立場を採っている〔
〕。国家起源は、ロシア史とウクライナ史の歴史観の相違の見られる重要点の一つである。
キエフ大公国と東ローマ帝国は、13世紀前半のモンゴルのルーシ侵攻によってクリミア半島における支配権を失った。
1239年から、クリミアはモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のテュルクモンゴル系諸部族(タタール)の支配下に置かれた。
クリミアにいたタタールの諸部族は、1441年にチンギス・カンの末裔(バトゥの弟トカ・テムルの子孫)であるハジ・ギレイハンとしてクリミア・ハン国を形成した。
クリミア・ハン国が形成されたのと同じ15世紀頃、モスクワ大公国リトアニア大公国とハン国との間の緩衝地帯となったステップ(現在のウクライナとロシアの南部)に住み着いた正教徒の人々が、コサック(コザーク、カザーク)と呼ばれる武装集団を形成した。1550年代、ウクライナ・コサックヘトマン、は、コサックを軍事組織化し、ドニエプル川の中洲にタタールの侵入に対抗するための要塞を建設した。これにより形成されたのコサックは、クリミア半島やオスマン帝国への襲撃を行うようになった。
コサックがポーランド・リトアニア共和国からの自立を目指したフメリニツキーの乱(1648年-1657年)では、ヘトマンのボフダン・フメリニツキーはクリミア・ハン国と同盟して挙兵した。
1682年、第二次ウィーン包囲により大トルコ戦争が開始されると、ロシアも参戦して露土戦争(1686年-1700年)を有利に進め、1700年にコンスタンティノープル条約が締結された。
1774年、露土戦争(1768年-1774年)に敗れたオスマン帝国は、キュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国の宗主権を放棄させられ、名目上独立したクリミア・ハン国はロシア帝国の影響下に入った。1778年にはロシアによって正教徒の住民がクリミアからアゾフ海北岸のマリウポリ周辺に強制移住させられた。そして1783年、ロシア帝国はキュチュク・カイナルジ条約を破棄してクリミア・ハン国を併合した。
当時の皇帝エカテリーナ2世の寵臣グリゴリー・ポチョムキンの主導でクリミア半島とその北のノヴォロシアと呼ばれる地域の開発が推し進められた。このときには開発のために移住させられたものの多くはウクライナ・コサックであった。
南下政策を推し進めていたロシア帝国にとってはクリミアは格好の不凍港の建設地でありセヴァストポリ要塞などが建設されるとともに黒海艦隊が創設され、これを母港とした。
1854年クリミア戦争ではセヴァストポリ要塞をめぐる攻防戦は黒海戦線では最大の激戦地となった。
比較的温暖な気候であることから、アレクサンドル3世ヤルタリヴァディア宮殿を営んだように、クリミアはロシア人の保養地としてにぎわうようになった。アレクサンドル・プーシキンバフチサライを訪れ、クリミア・ハン国の伝説に基づいた『バフチサライの泉』を著したり、レフ・トルストイやアントン・チェーホフがヤルタに一時居を構えたりしており、チェーホフの『犬を連れた奥さん』の舞台にもなっている。このようにクリミアはロシア・ロマン主義の中心地となった。
20世紀に入りソビエト連邦が成立し、クリミア・ハン国の流れをくむクリミア・タタール人の他に、多くのロシア人が移住しクリミアの住民を構成することとなった〔
〕。
第2次世界大戦中にクリミア半島に進撃してきたナチスドイツ軍に民族の一部が協力したとの疑惑から、ヨシフ・スターリンはクリミア・タタール人民族全体をシベリアウズベクなど中央アジアへと強制追放し、その過程で同民族の約半数が死亡する事態となった。
第2次世界大戦後の世界情勢を決定づけたヤルタ会談が開催されたのは上述ヤルタのリヴァディア宮殿においてである。
スターリン死後の1954年ニキータ・フルシチョフによりクリミアはロシア共和国からウクライナ共和国へ両国の友好の証として割譲された。1991年にソビエト連邦は崩壊し、追放されていたクリミア・タタール人もクリミアへと帰還した。しかしソ連崩壊後にウクライナがセヴァストポリに駐留する黒海艦隊の一部の所有権を主張したためロシアとウクライナの間に対立が発生し、クリミアではウクライナへの帰属を望まないロシア人住民を中心に分離独立を求める声が起こったが、最終的にクリミア自治共和国としてウクライナの一部となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入」の詳細全文を読む




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