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村山等安 : ウィキペディア日本語版
村山等安[むらやま とうあん]
村山 等安(むらやま とうあん、生年不詳 - 元和5年10月26日1619年12月1日))は16世紀末から17世紀初頭にかけて長崎代官を務めていた人物である。文献によっては「東安」「東庵」「等庵」とも記されている。
== 生涯 ==
村山等安の出自は、尾張国(現・愛知県清須市)〔小島幸枝『長崎代官 村山等安 その愛と受難』 聖母文庫、聖母の騎士社〕出身の他に、安芸出身、博多出身とも言われているが明らかではなく、生年も不明である〔『長崎県大百科事典』によれば、永禄9年(1566年)生まれで、当初は名を伊藤小七郎といったとある。〕。天正年間(1573 - 1592年)に長崎に流れ着き、金屋町に住んだ。才知に長け、弁舌さわやかで、しかもポルトガル語にも幾らか通じていたという。長崎町衆の1人として朱印船貿易商となって、末次平蔵の父・末次興善たちの助けを受け、当時珍重された呂宋壺ルソン島で焼かれた陶器。茶器として珍重された)の取引で資産を得た〔『長崎縁起略』によると、若い頃、南蛮菓子を作っていたとある。〕。また、イエズス会士により洗礼を受けアントン(Antaô、または Antonio アントニオ)と称した。
文禄元年(1592年)、文禄の役の際に名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎の地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預かる長崎代官になりたいと願い、許可された〔唐津城寺沢広高長崎奉行に任命されたのと同じ年である。〕。さらに秀吉は、彼の洗礼名アントンを元にした「等安」という名を与え、以後この名に改めるように命じた。
秀吉の死後も、外町(御免地を「内町」と呼び、それ以外の地を「外町」と称した)を村山が代官として支配していた。慶長9年(1604年)の正月にイエズス会ジョアン・ロドリゲス神父とともに伏見徳川家康に謁見し、引き続き長崎の代官となることを追認された〔イエズス会日本準管区長フランシスコ=パシオの1603年10月3日付の書翰によれば1603年の正月。〕。
その後、等安は呂宋壺の他に生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い、島津藩鍋島藩に融資するほどの金を蓄えた。
元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男村山秋安を司令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。
アビラ・ヒロンの『日本王国記』によると、等安は多くの妾を持ち、そのため妻子と不和に陥り、また多くの人々を殺害した。この時は長崎奉行長谷川左兵衛のとりなしで、かろうじて息子らと和解したという。
しかし、長崎の指導者層である頭人のグループや新興商人らと衝突することとなり、元和4年(1618年)の末次平蔵の訴えにより、キリシタンを擁護したことと大坂方と通じたという嫌疑で、元和5年(1619年)10月26日に江戸で斬首、一族も長崎で処刑された。彼の死後、長崎の代官業務は末次平蔵政直が継いだ。
大坂方と通じた嫌疑とは、大坂夏の陣の時、等安が息子の1人に浪人を添えて大坂城石火矢や玉薬を運び込ませたこと、またキリシタンでドミニコ会系の司祭であった三男フランシスコ等安が流罪になったのを、密かに長崎港外の高鉾島で下船させ、豊臣方として加勢に送りこんだというものであった。これを平蔵政直に伝えたのは、等安の料理人の三九郎という者であった。三九郎は自分の娘が等安に手打ちにされたのを恨み、政直に告げたのだという〔『長崎縁起略』、『長崎港草』。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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